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坂本城を歩く

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昭和54年におこなわれた発掘調査で、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀の坂本城
その本丸跡とされた場所には、キーエンスという会社の研修所が建っています
琵琶湖沿いの国道161号線沿い、この施設の門の脇には、こんな記念碑が刻まれています。  

   坂本城本丸跡  

   坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、  
   明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。  
   天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、  
   当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。          

                                  大津市教育委員会

(2011年にUPした記事のリメイクです)




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「坂本城は東南川のほとりにあった」
すでに坂本城の影かたちもなかった江戸時代からのそんな言い伝えに従ったたのでしょうか
河口に「坂本城址公園」が整備されています。 ただ、このあたりは縄張りの外(南)です。

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世に「お城好き」といわれる人たちに言わせると
「ヘンなお城を再建するくらいなら、石垣のまま残しておいてほしい!」ということだそうです。
「ヘンなお城」というのは、時代考証を無視して、観光誘致のために急造された「城」のことでしょう。
「お城好き」の方々は、その城の「在りし日」に思いを馳せることに長けていて
石垣さえあれば、あとは自分の知識と想像力で補って城を「再現」することができるのだと思います。
「ヘンなお城」は、むしろそんな想像力を邪魔するものにすぎないのかもしれません。

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ところが、ルイス・フロイスをして「安土城につぐ名城」といわしめた坂本城は
城のあったという下阪本のあたりを歩いてみても、往時を偲ぶよすがはなにもありません。

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大正時代、東南寺参道と北国街道(西近江路)の交わるこの地に、「坂本城址」の碑が建てられます。
発掘調査によると、このあたり二の丸の南限に当たり、この先の湖岸に壮麗な本丸がそびえていたことになります。

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「坂本城址」の石碑から東へ歩くと、国道の手前に東南寺があります。
寺名の由来は、比叡山の東南に位置すること。この場所で、伝教大師最澄が両親を追善し
民衆に法華経を説いたことにはじまるといわれます。
信長の比叡山焼き討ちにより焼失しますが、坂本城落城後、その戦死者供養のために再興。

境内には明智一族とその家来たちの首塚がふたつあります。
坂本城は、山崎の合戦ののち、秀吉軍に攻められ、焼失、落城しています。
あまり思いを致すこともありませんでいたが、当然、多くの戦死者が出ていたはずです。
「坂本城をしのぶよすがは何もない」と書きましたが、この首塚は
ここに坂本城があったことをリアルに物語る唯一のものといえるかもしれません。

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南北に延びる「北国海道」。 この通りは、二の丸と三の丸のあいだの堀であったのを
坂本城廃城後に埋め立て、北陸へとつづく「北国海道」として延長されたものといわれます。
「南大通町」という旧町名がこの間の事情を物語っており、下阪本の町は、この街道沿いに形成されていきます。

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北国海道から西にわかれた道沿い、南北に向かい合う酒井神社と両社神社。
(もとはひとつの神社だったといわれます)。このふたつの神社の東側の溝が、二の丸の北限、東限といわれます。

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元亀2年(1571年)比叡山焼き討ちの後、信長が
森可成の跡を継いで宇佐山城を守っていた光秀に対し、滋賀郡の支配を命じて築城さたのが坂本城。
山門(比叡山)の抑えと、びわ湖の制海権を得ることが、この地が選ばれた理由とされています。
築城後は、近江における反信長勢力に対する軍事施設として機能し
光秀はこの城を本拠地に、その後、約10年間活躍することになります。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲。
信長、そして二条城の信忠を自害に追い込みます(本能寺の変)。
しかし、6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は勝竜寺城に退却。
坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖の竹藪で土民に襲われ、無念の最期を遂げたといわれます。

人気の高いヒーローには「生存説」がつきもので、光秀もその例に漏れません。
小栗栖で死んだのは光秀の影武者で、実は、家康に重用され、秀忠、家光の三代にわたって
徳川に仕えた天海僧正こそ光秀その人だ、という説はあまりにも有名ですね。

もうひとつ有名なのは千利休説。
聡明な光秀は、主殺しの汚名を着たものが天下をとっても永続きしないことをよく知っていた。
そこで秀吉と密約。山崎で負けたふり」をし、自分は頭を丸めてお茶坊主となって
秀吉の参謀となり、彼を太閤の地位まで押しあげた・・・と。
光秀ではなく、その娘婿、左馬之助秀満こそ天海大僧正だとする説もあります。
(光秀と二代で天海僧正であったとも)

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左馬之助といえば、勇猛果敢な「湖水渡り」の逸話で有名ですね。

左馬之助は、光秀が山崎の合戦で敗れたと知るや、守備にあたっていた安土城から急きょ坂本城へ取って返しますが
大津の浜まで来たとき、秀吉側の武将、堀秀政に行く手を阻まれ、激しい乱戦のなか、味方の兵は次々と討死。
追い込まれた左馬之助は勢いよくびわ湖に馬を乗り入れ 「今に沈むか」と笑っていた堀秀政も
左馬之助が向こう岸に上陸したのを見てあわてて追いかけた、という講談なんかでお馴染みの話です。

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大津市の湖岸なぎさ公園、びわ湖ホールと琵琶湖文化館の間に「明智左馬之助湖水渡」と刻まれた石碑がひっそりと立っています。

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しかし、左馬之助が到着してまもなく、坂本城は秀吉の軍勢に包囲されてしまいます。

あたら灰となすに忍びぬ品々、貴公の手を経て世にお戻ししたい。お受けとりあれや

左馬之助は防戦する一方で、明智家の家宝を戦火で焼失するに忍びず
堀秀政の家老にこれを送り届けた、という話もよく知られています。

それがしの思う所、かかる重器は、命あって持つべき人が持つ間こそその人の物なれ
決して私人の物ではなく、天下の物、世の宝と信じ申す。 
人一代に持つ間は短く、名器名宝は世にかけて長くあれかしと祈るのでござる。 
これを火中に滅するは国の損失。 
武門の者の心なき業と後の世に歎ぜらるるも口惜しと、かくはお託し申す次第。

その処理が終わると、明智一族をことごと刺殺。 城に火を放って自刃。

『太閤記』にあるこの話は、つくり話なのかもしれませんが、好きな話です。
自らを戦国武将に擬える政治家や経営者はたくさんいますが、似てるのは野心くらいのもので
こういった高い精神性を持った人はとんと見かけません。 
落札したゴッホの絵画を自分の死後いっしょに燃やしてくれ、と言ってた人もいましたっけ・・・


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坂本には、この話にまつわる伝説がもうひとつあります。

明智家の名器名宝を堀監物に託した左馬之助が、ただひとつだけ手渡さなかったものがある、というものです。
キーエンスから国道をはさんで向かい、やや北側に、不思議な塚があります。
個人の方の所有地で、代々、供養されている、その名も「明智塚」。 このあたりは本丸の内です。

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「さわるとタタリがある」という言い伝えから、造成されることなく今日まで残ったこの塚。
伝説によると、坂本城落城の際、左馬之助が、光秀秘蔵の愛刀「郷義弘」の脇差を埋めたといわれます。
あれほど高潔な左馬之助が、なお「秘匿」したものがこの塚にほんとうに眠っているのだとしたら
他の「首塚」なんかではなく、光秀の魂は、きっとここに眠っているのだろうと思います。

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国道を北へ1.5kmほどすすむと、東に聖衆来迎寺(しょうじゅうらいごうじ)という天台宗の古刹があります。

この表門(切妻造・本瓦葺きの薬医門)は、光秀の遺言によって坂本城の城門が移築されたもの、との伝説がありました。
10年ほどまえに解体調査が行われ、その結果、表門より幅が広い城門の部材が転用された可能性が高いことや
大工道具の痕跡などから、坂本城と時代的な矛盾がないことなどが判明しています。
光秀の遺言かどうかはともかく、この薬医門が坂本城の数少ない遺構であることは、ほぼ間違いないと思われます。

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天正10年(1582年)、坂本城焼亡。同年、丹羽長秀が跡地に再建。 
4年後、浅野長勝により棄城。大津城に遷されます。 解体され、多くの資材は大津城に転用された、ともいわれます。
聖衆来迎寺の表門は、焼け残った光秀の坂本城のものでしょうか、それとも、解体された長秀の坂本城のものでしょうか?

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この聖衆来迎寺には、21もの国宝、重要文化財があり「比叡山の正倉院」とまで呼ばれるほど寺宝に恵まれています。
それほど大きくもない寺院が、これほど多くの寺宝を残しているのは、信長の比叡山焼き討ちを免れているからです。
山門の堂宇や麓の坂本の町をとごとく焼き払い、僧俗、老若男女を問わず偏執的なほどの大虐殺をおこなった信長が
なぜこの天台寺院だけには手をつけなかったのでしょうか?

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信長に小姓として仕えた森蘭丸の父、森可成は姉川合戦の後、宇佐山城に拠っていました。
が、浅井・朝倉連合軍に攻め込まれ、奮戦もむなしく下阪本の地で討死。
夜半、この寺の住職が、亡骸を運びこみ、ここに埋葬して懇ろに弔ったといわれます。
森可成を失った信長の悲しみは深く、これが比叡山焼き討ちの遠因だという人さえいます。
延暦寺の念仏道場であったにもかかわらず、聖衆来迎寺だけが焼き討ちを免れたのも頷けます。

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森可成の墓のうしろには、信長の孫である秀信の母、寿々姫の墓もあります。
秀信は本能寺の変で自刃した信長の嫡男、信忠と寿々姫との間に生まれた子。

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聖衆来迎寺の参道の両側は、見事な穴太(あのう)積みの石垣。

坂本の町を徹底的に破壊し尽くした信長は、焼け跡に残った穴太積みの堅牢さに感心して
安土城築城にあたって穴太衆に石垣をつくらせた・・・近年までそういわれていました。
安土城の石垣は、穴太衆が仕切っていたというわけではなく、ほかの多くの石工集団とともに築かれた
というのが定説のようですが、安土城に先行して、日本ではじめて「茅葺と石垣の天守をもった坂本城」は
地元に石工集団、穴太衆がいたからこそできたものだったのかもしれません。

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穴太衆の本拠地、穴太にも光秀ゆかりの寺院があります。 天台真盛宗盛安寺です。
城郭のような見事な石組みは、もちろん穴太衆によって造営されたもの。

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盛安寺のパンフレットには「天正年間のある夜、盛安寺の『暁の鼓』を打って
敵の急襲を知らせた恩賞として、光秀から庄田8石を賜った」という話が書かれてます。
また、今年になって設置された案内板には、比叡山焼き打ちの後、光秀が再建、とあります。

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光秀供養塔。

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余談ですが、この寺院は坂本の観光ルートからすこし離れていることと、拝観に予約が必要なこともあって
訪ねる人は稀れですが、井上靖の小説『星と祭り』に登場する木造十一面観音立像
伏見桃山城の遺材で建てられたといわれる宮殿の長谷川派極彩色障壁画、鑑賞式枯山水庭園など見所満載です。

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西教寺の総門も、坂本城の城門を移築したものと伝えられています。
(老朽化のため改築され、用材は当時のものではないようです)

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この寺も、信長の焼き討ちに遭い、灰燼に帰してしまいますが
光秀はたびたび訪れては、荒廃してもまだ鳴り止まぬ不断念仏の鉦の音に聞き入っていたといいます。
総門を入ってすぐ、三浦綾子の小説『細川ガラシャ夫人』から、その頃を描いた一説が掲げられていています。

ここに来て、光秀はいつもふしぎな気持ちになる。
自分たちが、血なまぐさい戦場を駆けめぐっている時も
広いこの本堂でに黙然と坐って、この老僧は、念仏をつづけていたのかと思う。
恐らくこの僧の一生は、南無阿弥陀仏の六字を称え、鉦を鳴らすことだけで終わるのであろう。
その老僧の心はわからない。が、尊いことに光秀は思う。
戦争、強奪、疫病、災害などの絶えぬ世に、こんな一生を終る僧がいることは、言いようもなく尊いことに思われるのだ。

「あー、これは、これは、御領主さま。 御来山を存じませず、まことに失礼いたしました。」
「いや、用があればわしが出向く。わしは、この不断の鉦がすきなのじゃ。」

坂本城に移ると同時に、光秀はこの西教寺の復興に力を貸した。
信長が比叡山を焼く時も、光秀は全山のために慎重な配慮をした。

元亀3(1572)年から天正2(1574)年にかけて、壇信徒と協力して仮本堂を建立。
庫裏に使用されていた材木が現在も残っていて、「天正年中明智公所造古木」の刻銘が入っています。
戦死した部下の供養のため、供養米を寄進した、その寄進状も現存しています。(いずれも撮影禁止)
また、鐘楼の鐘は光秀が寄進した坂本城の陣鐘ともいわれています。やがて光秀は西教寺の檀徒となって一族の菩提寺とします。

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二十五菩薩来迎石仏をはさんで、向かって右手に「明智日向守光秀とその一族の墓」。
左手のひときわ高い石の碑が「明智光秀の妻 熙子の墓」。

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元亀4年(1573年)2月、堅田城に拠った本願寺光佐を討った時
光秀は戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われています。

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光秀ゆかりの地、といえば、明智光秀と言えば誰もが知る本能寺。丹波攻略に乗り出した光秀が築城したとされる亀山城。 
平定したあとに築城した福知山城。本能寺の変後、秀吉と戦った山崎合戦古戦場。 栗栖の明智藪などがありますが
坂本が特別だと思うのは、坂本城が跡かたもなく消え去っても、光秀に対する、まちの人々の崇敬の念が残っているからです。
まちを焼き尽くした信長に対する恨みの反動というのもあるかもしれませんけれど・・・

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その脇には芭蕉の句碑が建っています。
  
月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ

芭蕉46歳、又玄という旧友を訪れたときの句です。
又玄の妻が、まめまめしくもてなしてくれる姿に感心した芭蕉はこの夫婦に
ふと貧しかった頃の光秀と熙子の姿を重ねあわせたのだといいます。

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月よ寂に澄め・・・

連歌の費用の足りないのを知り、黒髪を売ってその資にしたという
さあ、今宵は、そんな明智の妻の話でもしましょうか・・・

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Commented by ruolin0401 at 2020-02-18 18:43
こんばんは
いつもと趣きが異なる内容で拝読させて頂きました。
なかなかの力作と感心しています。
Commented by dendoroubik at 2020-02-19 05:34
☆素浪人さん

ありがとうございます(^▽^
ドラマの影響で 訪れる人も増えてきたみたいですけれど
坂本城は 想像も及ばないほど 跡形もありません
観光客は 何を感じるのかな と思ってしまいます(笑)
by dendoroubik | 2020-02-18 16:42 | 滋賀 大津 | Trackback | Comments(2)