2015年 01月 21日
日向の水中綱引
毎年、1月の第三日曜日(以前は1月15日)におこなわれる福井県美浜町の「日向(ひるが)の水中綱引」
(国選択無形民俗文化財)
午後2時、若狭湾と日向湖を繋ぐ運河に架かる橋より、半裸の若衆が水中へ飛び込みます。
両岸まで泳ぎつき、東西それぞれに運河に渡された綱を引き千切ろうと、水中で奮戦。
わずか20分ほどの行事に、橋と運河の両サイドを埋め尽くすほどの、見物客が県内外から詰めかけます・・・
午後2時、若狭湾と日向湖を繋ぐ運河に架かる橋より、半裸の若衆が水中へ飛び込みます。
両岸まで泳ぎつき、東西それぞれに運河に渡された綱を引き千切ろうと、水中で奮戦。
わずか20分ほどの行事に、橋と運河の両サイドを埋め尽くすほどの、見物客が県内外から詰めかけます・・・
日向の集落は、三方五湖のひとつ、日向湖を取り囲むように、建ち並んでいます。
湖そのものが舟溜りになったのは、若狭湾と湖を繋ぐ運河が開削されてからのこと。
開通したのは、寛永12(1635)年、初代小浜藩主、酒井忠勝が東国より国入りした翌年です。
湖そのものが舟溜りになったのは、若狭湾と湖を繋ぐ運河が開削されてからのこと。
開通したのは、寛永12(1635)年、初代小浜藩主、酒井忠勝が東国より国入りした翌年です。
その頃、浜の浸食により、漁港の確保がむずかしくなり、運河の開削を藩主に陳情したのだといわれます。
運河の開通後は、日向湖が天然の良港となり
運河の開通後は、日向湖が天然の良港となり
豊漁が重なったことを祝ってはじめられたのが、この「水中綱引」の行事なのだそうです。
観光案内を読むと、綱引行事は東国の風習で、正月15日にその年の吉凶を占うものとあります。
おそらく藩主を称揚する意味があったのかもしれません。
観光案内を読むと、綱引行事は東国の風習で、正月15日にその年の吉凶を占うものとあります。
おそらく藩主を称揚する意味があったのかもしれません。
午前9時頃に到着すると、綱打ちは終わりかけていました。
長さ40メートルにも及ぶものであるため、その朝、夜が明けるまえから作業がはじまるのだそうです。
長さ40メートルにも及ぶものであるため、その朝、夜が明けるまえから作業がはじまるのだそうです。
よいやさ よいやさ よいやさ
よいやさ やーさのどっこい
本殿の裏手にある「長床」と呼ばれる会館で、綱打ちがおこなわれています。
よいやさ やーさのどっこい
本殿の裏手にある「長床」と呼ばれる会館で、綱打ちがおこなわれています。
午前9時半頃、稲荷神社から綱が日向橋まで運ばれ、伊勢音頭を歌った後、運河に投げ入れられます・・・
綱引の起源については、別にこんな伝承もあります。
この運河に大蛇が出て川を塞いでしまい、舟が通れず村人たちが困っていると、村の長老が、こう助言します。
蛇は、自分より大きいものを恐れるという。
藁で大きな綱をこしらえて、張り渡せば、恐れて近づかないであろう・・・
その通りにしてみたところ、果たしてその後、大蛇はあらわれなくなり
村人は喜んで、縁起のよいその綱に触れようと、自然と綱引きになったのだ・・・と。
この運河に大蛇が出て川を塞いでしまい、舟が通れず村人たちが困っていると、村の長老が、こう助言します。
蛇は、自分より大きいものを恐れるという。
藁で大きな綱をこしらえて、張り渡せば、恐れて近づかないであろう・・・
その通りにしてみたところ、果たしてその後、大蛇はあらわれなくなり
村人は喜んで、縁起のよいその綱に触れようと、自然と綱引きになったのだ・・・と。
運河に夥しい数の大漁旗が張り巡らされてゆきます・・・。
「日向」という地名を聞いて、天孫降臨の神話を想起される方も多いかと思いますが
まさしく、ウガヤフキアエズにまつわる、こんな伝説が、この地名の由来となっています・・・
まさしく、ウガヤフキアエズにまつわる、こんな伝説が、この地名の由来となっています・・・
村に住む漁師の六郎右衛門がひねもす、湖で釣りをしておりましたが、釣果なく、日も暮れて帰宅しようとしたところ・・・
この湖のいちばん深いところ、さる高貴な方が救いを待っておられます。
一羽の鵜があらわれて、六郎右衛門にそう告げます。
鵜の導きにより、水中に分け入り、六郎右衛門が湖底に見出したのは、いとも貴き神器の宝刀。
六郎右衛門は自宅に神棚をつくり、神刀をお祀りすると、
自らを武鵜萱不合葺命(ウガヤフキアエズノミコト)と名乗る、こんな声が聞こえてきます。
上瀬のほとりに安泰せよ。
近郷の護り神となり、私の国の名「日向」を村の名に与えよう。
翌朝、六郎右衛門は村人たちに顛末を語り、上瀬川のほとりに宮を造り、神刀を奉還。
宇波西(うわせ)神社の社伝、大宝元年(701年)、美浜町日向で創建され
上野谷の金向山の麓に遷座した後、大同元年に現在地(三方上中郡若狭町)に遷座
というのは、この間の事情を物語っています。
日向の「渡辺六郎右衛門」家では、現在でも、「元宇波西社」として、この地が清浄にお祀りされています。
この湖のいちばん深いところ、さる高貴な方が救いを待っておられます。
一羽の鵜があらわれて、六郎右衛門にそう告げます。
鵜の導きにより、水中に分け入り、六郎右衛門が湖底に見出したのは、いとも貴き神器の宝刀。
六郎右衛門は自宅に神棚をつくり、神刀をお祀りすると、
自らを武鵜萱不合葺命(ウガヤフキアエズノミコト)と名乗る、こんな声が聞こえてきます。
上瀬のほとりに安泰せよ。
近郷の護り神となり、私の国の名「日向」を村の名に与えよう。
翌朝、六郎右衛門は村人たちに顛末を語り、上瀬川のほとりに宮を造り、神刀を奉還。
宇波西(うわせ)神社の社伝、大宝元年(701年)、美浜町日向で創建され
上野谷の金向山の麓に遷座した後、大同元年に現在地(三方上中郡若狭町)に遷座
というのは、この間の事情を物語っています。
日向の「渡辺六郎右衛門」家では、現在でも、「元宇波西社」として、この地が清浄にお祀りされています。
昨年見た「宇波西まつり」の写真です。神刀を両手で頭上に掲げているのが、出神家「渡辺六郎右衛門」ご当主です。
祭り当日、日向の人々は神饌を捧げて参拝。
その先頭には、元宇波西神社を奉祀する渡辺六郎右衛門のご当主が立ち
祭り当日、日向の人々は神饌を捧げて参拝。
その先頭には、元宇波西神社を奉祀する渡辺六郎右衛門のご当主が立ち
奉納舞が納められるまで、2時間もの間、このように石段で神刀を捧持されるのです。
「水中綱引」でも、日向の関係者が宇波西神社に参拝。午前11時より、神事がおこなわれます。
午後2時。縮緬の鉢巻き、晒の腹帯、パンツ一丁の若衆が、日向橋の欄干から、次々と海中に飛び込んでいきます。
飛び込んだ若衆は、泳いで綱の東西に別れ、それぞれに綱に取りつき、これを引き千切ろうとします。
昔は文字通り、東西で綱を引き合い、少しでも多く綱を取った方が豊漁とされていたようですが
現在は、このように両岸の綱を引いて、早く引き千切った方が縁起がよいとされているみたいです。
昔は文字通り、東西で綱を引き合い、少しでも多く綱を取った方が豊漁とされていたようですが
現在は、このように両岸の綱を引いて、早く引き千切った方が縁起がよいとされているみたいです。
西の方が早く綱が切れて、大盛りあがりです。
開始から20分ほど・・・あっという間の出来事でした。
千切られた綱(「キリクチ」)は、沖合に流されるのだそうです。
考えてみれば、おこなわれることは、たわいがないといえば、たわいのないことなのですが、味わい深い印象の残る行事でした。
ウガヤフキアエズ影向の説話を裏打ちするように、日向の字名や、言葉のなかには、宮崎との類似が多く見られるのだそうです。
日向国からの移住者によってつくられた村であることを物語っているのかもしれません・・・
日向国からの移住者によってつくられた村であることを物語っているのかもしれません・・・
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by
沙都
at 2015-01-21 23:30
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日向の綱引き、今年、行こうかと思ってましたが…
結局、行かず。
ゲジデジさんのレポートを見て行く時の参考にしたいと思います。
この日は敦賀でも綱引きが行われているようですね。
結局、行かず。
ゲジデジさんのレポートを見て行く時の参考にしたいと思います。
この日は敦賀でも綱引きが行われているようですね。
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dendoroubik at 2015-01-21 23:45
☆沙都さん
昨年「王の舞」でお会いしましたね
「水中綱引」でも ひょっとしたら…と思ってました(笑)
午前中から見物している人は少数でしたが
昼過ぎから急に増え出し
写真クラブのバスが乗りつけたりして盛況でした
越前の敦賀も江戸時代は小浜藩でしたので
やはり東国の風習からきてるのでしょうか
昨年「王の舞」でお会いしましたね
「水中綱引」でも ひょっとしたら…と思ってました(笑)
午前中から見物している人は少数でしたが
昼過ぎから急に増え出し
写真クラブのバスが乗りつけたりして盛況でした
越前の敦賀も江戸時代は小浜藩でしたので
やはり東国の風習からきてるのでしょうか
by dendoroubik
| 2015-01-21 20:23
| ◆若狭の祭
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