2012年 05月 19日
小松 お旅まつり2 三基揃え
14日、午前中に1回、各当番町での公演があり、
午後から橋北には三基、
橋南には五基の曳山が曳き揃えられ、
子供歌舞伎が演じられました。
橋北では京町、中町の曳山を両脇に、
当番の材木町の曳山のうえで
『忠臣講釈真葛ケ原 宅兵衛上使の段』が演じられました。
材木町の24年度版パンフレットにこうあります。
(観客に配られる両町のパンフレットは、
無料とは思えないような立派なもの。心意気を感じます)
一国一城制の江戸時代、
加賀藩には二つの城があった。
金沢城と、もう一つは小松城。
三代藩主の前田利常が
小松を隠居所にすることを幕府に願い、
それが許可されたのだ。
そこから今につづく小松の町づくりが始まった。
利常亡きあと、城主のいない城下町は町衆に引き継がれる。
その中で職人たちが住まいしたのが材木町。
まさに町づくりを支える技術者たちが集まっていた。
曳山が造られたのは江戸後期。
以降、組み立て・解体ごとの修理で職人技が発揮されてきた。
昭和四十八年には他町に先駆けて曳山保存会を結成。
曳山に寄せる思いは変わらず熱い。
そして今、藩政時代そのままの線形で残る街並みの再生が
「材木町地区歴史文化回廊」の名の下に進められている。
先人の知恵と技術と情熱は、
これからも曳山と街並みの中に生き続けることだろう。
文政年間に建造された材木町の曳山。
現存する小松の曳山のなかでは、もっとも新しいもの。
九谷焼中興の名工、材木町出身の栗生屋源右衛門が描いた
15枚の花鳥図が格天井に組み込まれています。
楽屋天井には墨絵の龍・・・
材木町の辻回しは、車輪の下に割れ竹を敷いておこなわれます。
これは祇園祭を真似たもので、
アスファルトで車輪が磨耗するの防ぎ、
スムーズの回転させるためのもの。
ジャッキアップするところもあるそうですが、
あえて割れ竹を用いるのは見栄えに配慮してのことだそうです。
職人街ならではのこだわりですね。
同じ橋北の京町の曳山は寛政4(1792)年の建造。
むしこのうえに、同町出身の村上鉄同の手になる
目のさめるような見事な腰彫が施されています。
背面にも見送り幕の代わりに、彫刻が施されていましたが、
これは曳山に関わらせて欲しいという申し出をしてきた
ある人物の手になるものだそうです。
せっかく現地で教えていただいたのにその人物の名は失念してしまいました(笑)
同じく橋北、中町の曳山。寛永10(1798)年の建造。
天井には鳳凰が描かれていいます。
極彩色の組物がキレイです。
右にちょっと写っている柱には青貝が磨き出されていました。
どうして小松の子供歌舞伎は女の子が主体で演じられるのでしょうか?
必ずしも女の子と決まったわけではなく、
今年の材木町でも男の子が二人演じていますが、
この風がはじまったのは明治末。
藩政時代から明治にかけては
やはり男の子が演じることが多かったそうですが、
明治末期からは金沢などの茶屋街の女の子が
頻繁に出演するようになり、
現在のように市内や近郊の女の子出演する傾向につながったそうです。
今回の『忠臣講釈真葛ケ原 宅兵衛上使の段』では、
主人公の宅兵衛こと寺岡平兵衛と
女郎蜘蛛・八十嶋陣十郎というふたりの男を男の子が、
残り4人の女役を女の子が演じています。
敵の目を欺くために一力茶屋で放蕩三昧の大星由良之助
(この芝居には登場しませんが・・・)。
その体たらくを見かねた寺岡は、
由良之助の本心を確かめるために身分偽って
松の廊下の刃傷沙汰により切腹させられた
塩谷判官の妻・顔世御前の邸を訪ねます・・・
結末はどうなるか・・・知らない人もいない
ご存じ忠臣蔵のシークエンスですが、
四十七士に加わるために
寺岡は実の妹を手にかける・・・という、ちょっと陰惨な芝居ですね・・・
あんまり好きな話じゃないのですが・・・
しかし、子供たちの熱演には息を呑みます。
(写真は、三基揃えでの公演だけでなく、
午前の公演で撮ったものも入れています)
それにしても写真が綺麗過ぎます^^♪
メリハリが素晴らしい~パンフレットを見ているようです。
いやいや
祭りの内容の良さからしたら もっと観光客が多くてもいいのに…と思いましたよ
京都なんかですと「これはどうかな~」という祭りやイベントでさえ混雑しますからね^_^;
歌舞伎は毎回 外題が変わるので また行きたいなあ…と思いました(^O^)/