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堅田5 匂当内侍の墓

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琵琶湖大橋の西詰めすぐ南、
今堅田にある野神神社の祭神は、
新田義貞の内室、匂当内侍。 

毎年、彼女の命日とされる10月8日(旧暦9月9日) 
「野神講」と呼ばれる10軒ほどの野神神事衆によって 
例祭がおこなわれます。 

この祭り、現在では「野神祭りとか、
「野神神社秋季例祭」などと呼ばれていますが、
ちょっと古い本なんかには
「きちがい祭り」と書かれています。




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後醍醐天皇に仕えていた匂当内侍は、
御所警固にあたっていた新田義貞に見初められ、
建武の新政を開始した天皇から
凱旋将軍・義貞への恩賞として与えた(「拝領妻」といわれます。 

建武3年、義貞は新政から離反した足利尊氏、
楠木正成らを京で破りますが、『太平記』では
建武政権が九州へ落ちた尊氏(「筑紫隠れ」)を追撃しなかったのは、
義貞が勾当内侍との別れを惜しんで
出兵の時期を逃したからだ、
といわんばかりの描かれ方をしています。 

やがて、義貞はその尊氏に
追い落とされて滅亡することになります。
 
『太平記』では、義貞が恒良親王らを奉じて
北陸地方へ逃れる際、匂当内侍は 
この今堅田て別れを惜しみ、
いったん京に帰って待つこと三年、
義貞に招かれ北陸へ向かうものの、
越前で彼の戦死を知り、首
級を目にして尼になった
・・・ということになっています。

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しかし、匂当内侍が義貞との別れを惜しんだという
今堅田で語り継がれているのは、まだ別の物語です。

内侍の身を案じた義貞は、
この土地に彼女を留め置きます。 

便りひとつ寄越さない義貞を
ひたすら待ちつづける内侍でしたが、
三年後 (延元三年)義貞が足羽藤島に露と消えた
・・・という知らせを受けて、
悲しみのあまり気がふれ、やがてびわ湖、
琴ケ浜に身を投じて果てます。 

非業の死を遂げた内侍を
哀れに思った今堅田の人々は石塚を築き、
以来、命日には講衆によって
彼女の霊を慰める祭りを行うようになったといいます。 

明応6年 (1497) 年には、
この石塚のうえに内侍を祭神とする社を建立し、
その後「野神神社」と称されるようになります。

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内侍の霊を慰める祭りが 
「きちがい祭り」と呼ばれていた所以は、
この祭りの作法次第の
まるで気が狂ったかのような習俗によるといわれます。 

お渡りの行列が受当家に着くやいなや、
突然、走り出してご膳(神饌)を投げつけたり、
夜の松明行列では 

  「火事や! 火事や! 城門が火事や!」 

と叫びながら内侍の墓に向かうのだそうです。 

義貞の死を知って気の狂った
内侍の姿を再現しているのでしょうか・・・?

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高貴な女性が世をはかなんで出家する
というのはこの時代の物語の常套句みたいなものですが、
気をたがえてびわ湖に入水する
・・・とう方がリアルに感じられなくもありません。 

「内侍」といえば

「御寝に侍る御息所や更衣にならぶ女性」
(吉川英治 『私本太平記』)です。 
そんな高貴な身分の絶世の美女が
目のまえで狂うさまを見るのは、
当時の今堅田の人々には 相当なインパクトだったはずです。 

そのインパクトの残響が、
「きちがい祭り」と呼ばれる奇祭を
現在にまで受け継がせているのでしょうか・・・ 

匂当内侍というのは『太平記』が生み出した
架空の女性・・・との説もあるそうで、
たしかに色恋沙汰の少ないこの物語で
彼女の登場に唐突な印象を受けないでもありません。 

一夜にして人の評価が変わってしまう
戦乱の世の慣いを、新田義貞の盛衰にかさね、
物語の味付けに挿入されたのかもしれません。

匂当内侍は比丘尼になって義貞の菩提を弔ったのか、
今堅田に留まってびわ湖に入水したのか、
あるいは義貞とは関係のない女性だったのか、
まったくの架空の女性なのか・・・
いまとなってはたしかめようもありません。 

しかし、もし今堅田の伝説が
匂当内侍と無縁のものであったとしても、
ここに残る廟や奇祭は、
それに類縁したなんらかの悲劇を
伝えていることはまちないないだろうと思います。 

あるいは、こうも考えます・・・

それが何であったかも、たしかめようのないことであるなら
「匂当内侍」 の悲劇ということでいいのではないかと・・・
by dendoroubik | 2011-12-23 00:00 | 滋賀 大津 | Trackback | Comments(0)