2011年 11月 28日
長浜 孤篷庵
「孤篷庵」といえば
京都大徳寺の塔頭としてその名を知られていますが、
同じ名を持つ庵が滋賀県湖北にもあります。
近江が生んだスーパーテクノクラート・小堀遠州・・・
彼が移封された近江小室藩の領地(滋賀県長浜市上野町)で、
死後その菩提を弔うために、
2代目藩主によって建てられた寺です。
遠州没後につくられたものなので、
彼の作庭ではありませんが、
本堂の二面に設けられた庭は、
その好みをよく表していると評されます。
今回はじめて訪れ、
それなりに期待はしていたのですが、
期待以上・・・神韻縹渺とした庭でした。
遠州は近江国坂田郡小堀村の生まれ。
父 正次はもともと浅井長政の家臣でしたが、
遠州が生まれたときには 長政は信長に滅亡させられ、
長浜城主となった秀吉に仕える身でした。
秀吉の死後も、父は家康に取り立てられ、
遠州はその遺領を継ぐわけですが、
その後の茶人、建築家、作庭家として
超人的な活躍は、いまさらいうまでもありません。
左手に紅葉、右手にはプードルのように(?)
刈り込まれたドウダンツツジがつづく参道。
どちらも紅く色づいて、
もう、ここから胸が躍るアプローチです・・・
燃えるような紅葉を背負った山門が見えてきます。
遠州の菩提を弔うための寺
・・・と書きましたが、
小堀家は6代目のときに、不正を理由に改易。
寺も衰微します。
明治以降は無住となり、
荒廃にまかせていましたが、
昭和13年、定泰和尚が寺の再興を図ります。
・・・が、伊勢湾台風により最後まで残っていたという
本堂までもが倒壊・・・礎石のみを残してあとかたもなくなったといいます。
現在の本堂は、その後 縁者や篤志家により、
再建されたもので、荒れ果てた庭園も
その時に整備されています。
当時のお寺がどんなものだったかはわかりませんが、
現在のお堂は、ふたつの庭園に囲まれたこじんまりとした
まるで小箱のような建物です。
「孤篷」は、禅の師匠・春屋宗園から授かった
遠州の号で「孤舟」・・・海にぽかんと浮かんだ
一艘の粗末な葦舟のことだそうですが、
このささやかなお堂自体も、
庭園の海に浮かんだ小舟のようにも思えます。
襖絵は京都の染色家、日本画家の皆川月華の手によります。
入って右側(南西)は枯山水の庭園。
林に三尊石を配し、そのまえに枯滝の石組み・・・
その手前には舟形石が配されています。
手前の苔庭は、ちょうど背後から射す
午後の遅い時間の陽光に樹木の影が伸びて、
渺茫とした大海原の広がりを感じさせてくれます。
板敷に腰掛けて・・・
やっぱり、小舟から海を眺めているよう・・・
縁側の角に、鉄製の釣灯篭がぶら下がっています。
なにげなく吊るされているように見えて、
ここを境に風景が劇的に変わります。
左に目をやると・・・
本堂の北東には瀟湘八景を模したといわれる
池泉式庭園がひろがっています。
山から水を引き入れた「錦渓池」は
瀟湘八景を模して発案された近江八景のびわ湖に似ていなくもありません。
風もないのに、ハラハラ、ハラハラ、
・・・と楓の葉が降り落ちていました・・・
庭木は ほとんどが紅葉と椿で構成されており・・・
紅葉がすべて葉を落としたあとには、
椿がその姿をあらわすのだそうです。
同じ滋賀県内でも、このあたりからちょうど
「北陸気候」に分類される雪深い土地・・・
椿が庭にせり出した雪の庭も見てみたいものです。
参道脇の斜面には、
小堀家の歴代当主と家臣たちの墓石が並んでいます。
紅葉が紅すぎて、
まるでなにか主張しているようにも感じられるほどです。
ここを訪れる人は、たいてい「小堀遠州」
という名前の大きさのためか・・・いま見た庭園の美しさを、
すべて彼に帰して わかったつもりになってしまうきらいがあるようです。
子孫や家臣に、これといったエピソードがないからかもしれません。
が、この寺をつくったのも、守り、再興したのも
彼の縁者や家臣、そして彼を敬愛する篤志家たちですね。
駐車場へ戻るころ、
入れ違いに大型の観光バスが2台、やってくるところでした。
孤篷庵、紅葉のシーズンにいったことないんです。
ドウダンツツジが咲いてる頃に行きましたね。
緑の葉の色がキレイでした。
静かで、こんじんまりしてて、人が少ない分、
自分だけのもの、って感じで居られました。
でも、やっぱり、紅葉の時に行きたいですね~
庭をみて 心にポッと灯りがつくようなことなどあまりなかったのですが
孤篷庵は 入ったとたんに そんな感覚にとらわれてしまいました
緑の深い季節もいいでしょうね
そういう季節にも 訪れてみたと思いました
雪と椿の景色もいいでしょうね・・・でも 雪が降ると ちょっと近づきづらそう^-^;
秋がいちばんいいのでしょうが 団体さんにはちょっと辟易してしまいました・・・