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つづいて、現在、資料館になっている「旧伴庄右衛門邸」(近江八幡市指定文化財)。
こちらは御殿雛や段飾りがメインになっています。

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毎年、桃の節句の前後に
湖東の近江商人屋敷でおこなわれるのが「ひな人形めぐり」。

五箇荘、日野には何度か足を運んだことがあるのに、
なぜか近江八幡には行ったことがなく、
もう終わりかけではありますが、
近くの用事があったついでに立ち寄ってみました。

主な会場はふたつ。
まず「西川利右衛門邸」から・・・。

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天正3年、長篠・設楽原の戦いで
武田勝頼軍に勝利した織田信長は
家督を嫡男信忠に譲り、尾張,美濃の領国を与えます。

翌年、彼は近江守護六角氏の観音寺城の
支城があったがびわ湖東岸の安土山に城を築きはじめます。

信長はどうして安土に城郭を築こうとしたのでしょうか・・・?

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滋賀を舞台にした小説といえば 井上靖の『星と祭』
などが筆頭に挙げられますが、
忘れてはならないのは山田風太郎の名作『甲賀忍法帖』。 
(忍法帖シリーズの第1作です)

「甲賀ロミオ」こと甲賀弦之介と
「伊賀ジュリエット」こと朧のふたりは恋仲。 

ふたりの結婚によって、
甲賀と伊賀の400年にわたる宿縁は終わるはずでした。 

ところが、徳川家康のバカげた命令のために、
両者は引き裂かれてしまうばかりか、お互いに戦わされるハメに・・・。

徳川三代目将軍は竹千代か国千代か・・・

悩んだ家康は、甲賀と伊賀の忍者を
10対10のトーナメントで(笑)戦わせ、
甲賀が勝てば聡明な国千代、伊賀が勝てば暗愚の竹千代を
三代将軍に据えることを決定します (そんなバカな^-^)

甲賀、伊賀が死を賭し、秘術の限りを尽くして死闘を繰りひろげます。

トーナメントの決戦は、恋人同士の弦之介と朧。

弦之介の得意技は「瞳術」。 
彼の黄金の瞳は何人も逸らすことができず、
魅入られた相手は、自らを殺してしまうという恐るべき秘術です。

フィアンセの朧は「破幻の瞳」。 
彼女が見つめると、あらゆる忍法が無効になってしまいます。

まるで「矛」と「盾」のような「瞳術」と「破幻の瞳」。 

どちらが勝利をおさめるのか。

あまりにも悲しすぎる結末は・・・本をお読みください(笑)

『甲賀忍法帖』、その後のマンガやアニメなどの
忍者ブーム火付け役となりましたが、
そういえば僕の子供のころは、「忍者ハットリくん」 (実写版!)
「仮面の忍者 赤影」 「カムイ」 「サスケ」」など、
者もののアニメやドラマが多かったですね。

僕らは、忍者の子・・・だ!

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滋賀県でよく見かけるものといえば・・・

「飛び出し坊や」
「鍾馗さん」

そして「勧請吊り(縄)」があります。 

滋賀県に特有・・・というものではありませんが、
これだけ集中的に残っているのは、
おそらく滋賀だけかもしれません。 

集落によってかたちや行事、
呼び名さえちがうそうですが、
集落の入り口に架け渡され、
災いの進入を防ぐ・・・つまり、結界をはる
・・・という意味合いは共通するようです。 

写真の近江八幡市(旧安土町)老蘇地区では 
この縄は「まじゃらこ」<と呼ばれます。 

もともとは、集落の東西南北に張られていたものが、
明治以降簡略化されて、
集落の氏神さんの境内と、
入り口一箇所に張られるようになったところが多いとか・・・。

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集落の入り口に張り渡される勧請縄も、
両端に架ける大木がなくなったり
(あるいは、交通の障害になったり?)して、
このようにくるりと巻きあげて、
片方の木に結わえつけられるものが多くなったそうです。 

詳しい経緯は知りませんが、
こいうった習俗をやめてしまわずに 

   「巻きあげてもOK。 災いの進入は防げる!」

とする簡略化の発想がおもしろいですね~~
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今朝、何気なく連続ドラマ『カーネーション』を見ていたら、
主人公の店の小屋根の看板の横に
鍾馗さんが映っていて、びっくりしました。 

セット撮影ですので、わざわざ小道具さんが
セッティングされたものなんでしょう。 
最近のドラマは・・・というか、NHKは凝ってますね。

凝りすぎて

  「画面が汚い」(平清盛)

なんて言われてしまうのでしょうか。

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瓦製の鍾馗さんを魔除けのために
小屋根に載せる習慣は京都からはじまったそうですが、
常々、不思議に思っていることがあります。 

大津から東海道、中山道沿いの古い民家には
鍾馗さんの姿をよく見かけるのですが、
びわ湖の西側は坂本から先には あまり見かけなくなります。 

東海道、中山道をさらにすすんで、
中部地方までよく伝わっているそうですが、
坂本から北国街道をたどって北陸まで行くと、
これがバッタリ見られなくなります。 

富山や金沢の古い町並みを歩くとき、
注意深く小屋根のうえを観察するのですが、
いまだ一度も発見にはいたりません。 

なぜなんでしょうか・・・?

あるいは、鍾馗を旗印にしていた
前田利家公への遠慮から・・・とも考えてみましたが、
福井や湖西からすでにないことを考えると、
そうでもなさそうです。

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古い町家だけでなく、
最近は新築の一軒家やマンションなんかにも
鍾馗を飾っていたりしますね。 けっこうオシャレです。 

見かけるとついついパチリ・・・なので、
鍾馗さん写真は、飛び出し坊やと同じくらいのストックがあります(笑)

(上の2枚は近江八幡、下は大津)
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戦国時代、堅田を訪れたルイス・フロイスは 
この町を甚だ裕福なる町」と評しています。

中世以後 堅田は殿原衆」(地侍)と
「全人衆」(商工業者・周辺農民)による自治が行われており 
「堺の並び称される自治都市」
・・・といわれるほど活況を呈していたようです。 

どこの支配にも属さず
「湖上水運」による特権をほぼ独占してきた
・・・という経済的背景があったんですね。 

堅田の歴史は、この特権をめぐる比叡山や
信長たちとの争い・・・といっても過言でないと思います。

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統一された建築様式による町並み
・・・というものはありませんが、
それでも現在の堅田の町を歩いていると、
漁村らしい町並みのなかに、
かつての繁栄をしのばせる佇まいが、
あちらこちらに散見されて興味が尽きません。

(1枚目の写真は「殿原衆」の筆頭党首、居初家住宅。 
茶室「天然図画亭」とともに一般公開されています。 
2枚目は堅田浦郷士、辻家住宅。

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堅田の浜・・・

中世には湖上関があったという「関屋の浜」の突端に
高さ8メートルほどの木製の灯台が建っています。 

木製の灯台というのは他にあまり例を見ないそうですが、
昔から船の座礁や難破事故が絶えず 
1875(明治8)年、客船「満芽丸」の転覆事故で
47人が亡くなったのを機に船会社が建てたものだということです。

「光源は大正七(1918)年まではランプを使用し、
それ以降電灯に切り替え」られた・・・と 案内板にあります。 

ランプ時代は、9戸の家が当番で灯しつづけていたのだそうです。 

「昭和36(1961)年9月の第二室と台風により
倒壊寸前の状態となりましたが、
地元の熱心な保存運動により、
昭和48(1973 )年、今日見る姿に復旧されました」

びわ湖を航行する船にとって、
現在も必要なものかどうかは知りませんが、
平成元(1989)年には地元有志の方々により
点灯が再開され、闇夜の湖岸に独特の味わいを添えています。 
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平家終焉の地は、壇ノ浦・・・ではなく、
滋賀県野洲市・・・

壇の浦の合戦で敗れ、
つぎつぎに入水して果てる平家一門のなかで
建礼門院と清盛の妻の兄弟平時忠、
一門の大将・平宗盛とその子・清宗は源氏に捕らえらます。 

宗盛父子は鎌倉から京へ送り返される途中、
近江の野洲(大篠原)で源義経に斬殺されますので、
平家終焉の地は壇ノ浦というよりも、
滋賀県野洲市というのも、あながちまちがいではないでしょう。

宗盛というのは『平家物語』では、
兄、重盛のすばらしさを際立たせるために、
その対比で愚鈍な人物として描かれており、
捕らえられたのちも、ひたすら助命を求め 

  「それでも清盛の子か!」   

・・・とあきれられる卑屈な人物という役回りです。

でも、これは物語上のキャラクターの割り付けなので、
彼がほんとはどんな人物だったかなんて、
いまとなっては誰にもわかりません。 
『平家物語』は、これでもかというくらい
彼のみっともない姿を描き出しているので、
かえって「ほんとかな?」と思ってしまうほどです。

義経はせめてもの情けからか、
父子の胴をひとつの穴に埋め、塚を建てたといいます。 

中山道(国道8号線)からすこし入った 
うらさびた藪のなかに、墓標がひっそりと立っています。
「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた石碑と
その横の墓標と石仏は、もちろんその後に建てられたものでしょうが、
風雪による浸食で、とてもわびしい雰囲気を漂わせています。 

処刑にこの地が選ばれたのは、首級を持ち帰るために、
京まで1日のこのあたりが都合よかったからでしょうが、
中山道沿いをもう少し戻った竜王の鏡は
義経が元服した土地であり、
その地を血で汚すことを嫌った彼が
少しすすんでこの地を選んだのだという 
穿った見方をする人もいます。

しかし、竜王ではなく野洲で宗盛父子が斬殺され、
埋められたのも不思議なめぐり合わせです。

『平家物語』の冒頭で、奢る清盛を表すエピソードとして、
祇王・祇女の物語が挿入されていますが、
彼女たちは野洲出身ということになっています。 

寵愛を一身に受ける祇王の願いで、
清盛は野洲に用水路(祇王井川)を掘らせ、
おかげでこのあたり一帯は豊かな農地になります。 
灌漑に苦しんでいた野洲の人々にとって清盛は恩人なわけですね。

清盛の最後の血統が眠る場所として、
野洲ほどふさわしい場所もなかったことになりますが、
あまりにできすぎた話に、これが史実なのか、
物語上の脚色なのか、ふと考えてしまうことがあります。 

中山道をさらに京側へすすんで東海道と交わる
草津の野路というところには「清宗塚」なるものがあり、
息子、清宗は野洲ではなく、
ここで処刑されたと言い伝えられているそうです・・・。

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墓の向かいにある池は、
宗盛父子の首を洗ったという「宗盛首洗池」。 

あまりにも哀れな平家の最期に
蛙も鳴かなくなったことから

  「蛙鳴かずの池」

・・・とも呼ばれるそうですが、
現在は中途半端に埋め立てられて、
蛙さえいそうにないほど淀んでいます。 

蛙はともかく、すぐ脇にオープンした焼肉屋さんや
向かいのラーメン屋さんが早々にクローズしてしまったのも、
なにかの因縁でしょうか・・・
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松尾芭蕉の門弟のなかで、
とくに優れた高弟10人を指して 

  「蕉門の十哲」 
といいますが、そのなかに森川 許六
(もりかわ きょりく)という彦根藩士がいます。 

同じく蕉門十哲の一人に数えられる
其角に師事して蕉風に傾き、
江戸での勤務の折、深川にいた芭蕉に入門。 

彦根に帰る際には芭蕉から 
「柴門之辞」を送られるほどの厚遇・・・

「弟子」といっても実際の接触はその1年間だけで、
お互いにその才能を理解し合う仲だったともいわれます。 

「許六」 の号は 槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の
六芸に通じていたころからは芭蕉が命名したもの
といわれるほどの才人。 
特に絵の腕前は 芭蕉をして

  「絵では あなたが師匠だ」 

といわしめたほどのものだったといわれます。

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生前に描かれたものであるため、
実像に近いのではないかといわれ芭蕉の肖像画として
よく引用される「おくのほそ道」の旅姿を描いた 
「芭蕉行脚図」も彼の筆によるものです。 

龍潭寺方丈の10室は五十六絵すべて
彦根藩士中野助太夫三宜の依頼によって
許六が描いたものと伝えられています。

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