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先日、三重県桑名へ 「石取祭」を見物に行った際、
到着したのが、見どころにはまだ早い昼過ぎだったため、
せっかくなので会場にほど近い「六華苑」へ立ち寄ってみました。

大正2年(1913年)に竣工した、
実業家諸戸清六の邸宅(重要文化財)と、
池泉回遊式の日本庭園(国指定名勝)
総面積は18,000平方メートル強が、
桑名市に寄贈、売却され、一般公開されています。

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敦賀の先で国道8号線と分かれ、
越前海岸沿いに走る「越前・河野しおかぜライン」

たしか、以前は有料道路でした・・・。

終点の河野の交差点で、
北陸自動車道、南条インターから伸びる
国道305号線に取って変わられ、
三国、東尋坊まで越前海岸沿いの道はつづきます。

まもなく右手に、
由緒ありげな豪華な家屋が見えてきます。

北前船主として勇名を馳せた、右近家住宅。

山々が海に迫り、僅かな平地に、
家々が帯状に密集している・・・というのは、
越前海岸でお馴染みの光景ですが、
それらとはあきらかに異なり、
河野の集落は、右近家を中心にして、
まるで「小さな王国」のような佇まいを残しています。

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12月はたいていどこへも出かけられず、
自宅と職場を行ったり来たりの毎日です。

そのうちに旅情が募り・・・止み難くなったときには、
ベッドのうえで旅行記を読んだりして、気を紛らせています(笑)

いちばんよく手にするのは、種村季弘が編んだ
『放浪旅読本』というアンソロジーです。

ふらんすへ行きたしと思へど
ふらんすはあまりに遠し


萩原朔太郎の「旅上」から始まって、
家出、無銭旅行、ドサ回り、夜逃げ・・・
古今東西、あらゆる放浪のエッセンスが詰まっています。

読んでいるうちに、抑え難い気持ちが慰撫されて、
そのまま眠りにつくこともあれば、
ますます旅情が募ってしまうこともあります(笑)

(ホントは「旅情」なんてカッコいいものではなく、
たんなる逃避願望にすぎないのですが・・・)

そんな夜更けは、
ほったらかしにしていた旅行の写真を現像したり・・・。

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えちぜん鉄道、三国芦原線の終点、
三国港駅ちかくの「眼鏡橋」。

大正2年(1913)国鉄三国線に建設された
このレトロモンダンな橋は、
通称ねじりまんぽ(斜拱渠)の珍しい建造物。 

通常、レンガはまっすぐに積みあげられるものですが、
拱渠やトンネルなんかをつくるとき、
線路とその下の道や川が斜めに交差していると、
アーチ部分を斜めにねじって積みあげることがあり、
これがいわゆる「ねじりまんぽ」。

コンクリートによる構造物が主役になる大正時代以降は、
姿を消してしまいますが、
眼鏡橋もその数少ない例のひとつ。

全国に30例ほどしかないそうです(国登録有形文化財)。

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大正12年、駒井博士夫妻は欧米へ渡航。 
後に自宅の新築にあたりヴォーリズに設計を依頼したのは、
当時流行していたアメリカン・スパニッシュスタイルの建築を
ヴォーリズが得意としていたこと、
また静江夫人がヴォーリズ夫人の一柳満喜子と
女学院時代の同窓生だったことが縁になった・・・といわれています。 

アメリカでの2年間の生活は、研究成果に留まらない影響を夫妻に与えた・・・と。

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京都北白川の住宅地・・・

琵琶湖疎水の畔に、昭和2年、
ヴォーリズ設計で建てられた
駒井卓京都帝国大学教授の遺邸。 

平成10年、京都市指定有形文化財に指定、
同14年、遺族から「財団法人日本ナショナルトラスト」 
に寄贈され、毎週金・土曜日 (10:00~16:00) 
一般公開されています。

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「グラバー園」 と聞くや、いまでもあるメロディが
反射的に心に浮かび、ついつい口づさんでしまいます・・・

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そのエキゾチックな名前に惹かれ、
いちどは行ってみたいと思っていた
長崎「唐人屋敷」 跡・・・「館内町」。

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長崎の 「出島」 については、教科書で習った記憶がありますが 「唐人屋敷」 についてはその記憶がありません。 (あるいは、居眠りによる記憶の欠落かもしれません・・・きっとそうでしょう^-^;)

欧米への窓口が厳密に 「出島」 に制限されていたのに対し、中国との貿易も・・・長崎のみに限られていたとはいえ・・・彼らは市中に日本人と 「同居」 していたといいます。 キリスト教徒でなかったことがそのような緩やかな措置をとらせたのでしょうが、やがて、密貿易や いわゆる 「混血」 問題から 中国人の居住地区も制限することになり、現在の館内町につくられたのが  「唐人屋敷」 。 周囲を塀と堀で囲まれた屋敷内に中国人が起居し、番所で出入りを監視されるようになります。 広さは約9,400坪、2,000人程度の収容能力をもつものだったといいます。

1859(安政6)年の開国で事実上 廃屋となり、さらには1870 (明治3) 年の火災で残っていた中国人も居留地・十人町や新地(現在の 「長崎新地中華街」) などへ移住・・・現在の 「館内町」一帯に当たる 「唐人屋敷」 跡を歩いてみました。

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「全店1割引」
「価格は裏表紙をまくった所に書いてあります」

微妙な言葉のずれが、なおさら旅情を誘います・・・

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あすでetc1,000円も終了・・・

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あー。
また行きたいな・・・
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吉田川のせせらぎ・・・

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