
昭和9年には日枝神社の春の例祭の奉納行事としておこなわれるようになりました。
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社伝によると・・・いまから約800年まえ、土御門天皇が重篤な病に伏せられたとき、占い師に占わせたところ 「栗太と野洲の両郡にまたがっていた大沼に住む数千年生きる大蛇が天皇に危害を加えている」 ・・・という答えが返ってきます。 宮中から軍を差し向けて勝部神社に参籠、50日後、どこからともなく姿を現した大蛇を殺し焼いたところ、たちまち天皇の病気は平癒した・・・という故事がこの祭りの起源とされています。 同日、同時刻に、同じ守山市の 「住吉神社」 でも同様の火祭りがおこなわれ (『浮気ふけの火祭り』) そこでも多少異同はあるものの、似たような言い伝えがあるそうです。
境内でのスピーカーをとおしての解説で、そのほかにも、俵藤太に退治された三上山の大ムカデの頭が浮気の住吉神社に、胴体は勝部神社に,尾は瀬田の唐橋近くまで飛んだ・・・という昔ばなしもある・・・と紹介がありました。

この神社はその名が示すとおり、古来より武門との関わりが強く、豊臣秀吉が朝鮮征伐の戦勝を祈願するなど 武家より厚い崇敬を受けていたといいます。
あるいは、以前からおこなわれていた左義長のようなものが、この神社の武門との係わりから 「土御門天皇のための大蛇退治」 という勇ましい話に変わっていったのまもしれませんね。 小正月のまえに、藁でつくった大蛇を燃やす神事は大津にもあるので、ひょっとすると起源におなじ謂れがあるのかもしれません・・・
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それぞれの神社で、朝から別な祭(宮川の「田楽踊り」 山之上の「長刀踊り」)がおこなわれるのですが、ある時間帯にはお互いの神社で踊りが奉納される・・・つまり、合同のお祭なのです。
祭が合同でおこなわれるようになった由来は、いまから300年ほどまえ・・・当時、尾州領だった山之上が旱魃で苦しんでいたとき、宮川の分水を受けたことから友好関係が深まったことによるといわれます。
当日は朝から「日野祭」「瀧樹神社のケンケト祭」を見て、夕方、山之上神社のケンケト祭のうち・・・「長刀踊り」だけを見物しました。
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お隣の近江八幡ではあれほど頻繁におこなわれている松明まつりですが、なぜか竜王も含めて周辺地域で見かけることはありません。ただ、この地域は八幡にも距離的に近く、いつの時代にか伝播したのかもしれませんね。
この神社は荘園時代に、対岸の坂本日吉大社の社領地で、大山咋之命の分霊をお祀りしたのがその起源といわれます。 おそらく、その頃にはじめられた神事なのかもしれませんが、花火の不思議な使われ方など、どういう由来でこんなかたちになったのか・・・知りたいものです。
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神社の創建は不明だそうですが「永原千句」と呼ばれる連歌師興行が明治中ごろまでおこなわれていたといわれますから、文化的にもすすんだ場所だったんでしょうね。(北村季吟もこの近くの出身です)

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小津、玉津の両学区十一町の範囲で毎年順番に踊りを担当し、8年に1度の持ち回り・・・ということは予備知識として仕入れていたのですが、この祭・・・いろんな記事や本などによって、書かれているスケジュールがけっこうまちまちです^^; 持ち回りのために、受け持つ地区の都合で、時間が変化するのでしょうか・・・?
午前9時半から10時ごろに、小津神社の参道で長刀踊りが見られる・・・というのが最大公約数みたいなので、9時前に、鳥居まえに行ってみました・・・
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祭の由来は、約800年前に遡ります。
土御門天皇が病になられたとき、栗太と野洲の両郡の境にある大沼に住む数千年生きる大蛇が天皇に危害を加えているという占いが・・・。 宮中から軍を差し向けて勝部神社に参籠、50日後、姿を現した大蛇を殺し焼いたところ、たちまち天皇の病気は平癒したといいます。
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