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カテゴリ:長崎( 4 )

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世に「坂好き」という酔狂な人種が居りますが
・・・かくいう僕もそのひとりです(笑)

登り降りがたいへんな、坂のどこがいいのか
などと無粋なことを言うなかれ。 
日本人は、その文明の起源より
、好んで山の麓に住んで来たじゃないですか! 

東京には山がなくて つまらない
・・・と思う一方で、坂に魅力的な名前をつけて
興がる術を心得ているのはさすがです。 
果ては「全力坂」なる倒錯的なTV番組まで
生み出してしまったのは、日本人と坂との 
のっぴきならない関係を明かしているように思えてなりません。

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「グラバー園」 と聞くや、いまでもあるメロディが
反射的に心に浮かび、ついつい口づさんでしまいます・・・

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そのエキゾチックな名前に惹かれ、
いちどは行ってみたいと思っていた
長崎「唐人屋敷」 跡・・・「館内町」。

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長崎の 「出島」 については、教科書で習った記憶がありますが 「唐人屋敷」 についてはその記憶がありません。 (あるいは、居眠りによる記憶の欠落かもしれません・・・きっとそうでしょう^-^;)

欧米への窓口が厳密に 「出島」 に制限されていたのに対し、中国との貿易も・・・長崎のみに限られていたとはいえ・・・彼らは市中に日本人と 「同居」 していたといいます。 キリスト教徒でなかったことがそのような緩やかな措置をとらせたのでしょうが、やがて、密貿易や いわゆる 「混血」 問題から 中国人の居住地区も制限することになり、現在の館内町につくられたのが  「唐人屋敷」 。 周囲を塀と堀で囲まれた屋敷内に中国人が起居し、番所で出入りを監視されるようになります。 広さは約9,400坪、2,000人程度の収容能力をもつものだったといいます。

1859(安政6)年の開国で事実上 廃屋となり、さらには1870 (明治3) 年の火災で残っていた中国人も居留地・十人町や新地(現在の 「長崎新地中華街」) などへ移住・・・現在の 「館内町」一帯に当たる 「唐人屋敷」 跡を歩いてみました。

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熊本からフェリーで雲仙へ渡り長崎へ向かう途中・・・

堤防のむこうに、ニュースリールで見るような風景が
広がっているのかと立ち寄ったのですが・・・
見晴るかす干拓地。 なにもありませんでした。