坂本城を歩く

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何年かまえに、テレビで
「お城好き」で知られるふたりのタレントが対談していました。

  ヘンなお城を再建するくらいなら、
  石垣のまま残しておいてほしい!

ひとりがそう発言すると、
もう一方もその意見に激しく同意していました。

とくにお城に興味があるわけではないので
「そんなもんかなあ・・」と思って見てましたが、
その考えは、ちょっとわからなくもないですね。

おそらく、ヘンなお城」というのは、時代考証を無視して、
観光誘致のために急造された「城」のことでしょう。
「お城好き」の方々は、その城の「在りし日」に
思いを馳せることが好きなのであって、
石垣さえあれば、あとは自分の知識と想像力で補って
城を「再現」することができるのだと思います。

「ヘンなお城」は、むしろ
そんな想像力を邪魔するものにすぎないのかもしれません。

ところが、ルイス・フロイスをして

  「安土城につぐ名城」

といわしめた坂本城・・・
城のあったという下阪本のあたりを歩いてみても、
往時を偲ぶよすがはなにもありません。

大津市下阪本にある坂本城址公園。
かつてここには、明智光秀の坂本城がありました。
昭和54年におこなわれた発掘調査によると、
この写真でいえばちょうど光秀像のうしろの木の向こうに、
大小ふたつの秀麗な天守がそびえていたことになります。

「想像」できますでしょうか・・・?
(僕にはできません)

いくらディープな「お城好き」でさえ、
坂本城の幻影を思い描くのはむずかしいかもしれません・・・。

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by dendoroubik | 2013-01-14 16:53 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(21)

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比叡山の麓、大津市坂本の日吉大社東本宮。
境内にはいくつもの小さな社が建っています。
あまり気にとめることもないのですが、
それぞれに謂れがあるのでしょうね。

東本宮から大宮川を渡って少し坂を下り、
右へ行けば日吉番場の参道、
左へ行けば西教寺という三叉路の路傍に、
小さな社があります。
日吉大社の境外社で「鼠の社」と呼ばれています。

「大国主命」と祭神が書かれているだけで、
何の説明書きもありません。
手を合わせることはもとより、気にとめる人さえまれですが、
この小さな社は「平家物語」や「太平記」にも描かれた
ある「事件」を鎮めるために建立されたものともいわれ、
江戸時代の読本なんかにも登場する、ちょっと有名な社なのです・・・

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「平家物語」巻第三「頼豪(らいごう)」にこうあります。

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by dendoroubik | 2012-07-01 00:00 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(6)

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  舟を曳きあげ漁師は帰る 
  あとに残るは 波の音 
  ヨイショコショ 浜の松風・・・

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by dendoroubik | 2011-12-15 19:00 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(0)

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近江に生まれたわけでもないのに、
自分が死んだら大津に埋葬するよう遺言した男が二人います。

一人は隣国 伊賀生まれの聖俳・松尾芭蕉。

  偖、骸は木曽塚に送るべし、
  ここは東西のちまた、
  さざ波きよき渚なれば、
  生前の契り深かりし所也

いま一人は、日本人でさえなく・・・
「日本美術の恩人」アーネスト・F・フェノロサ。

芭蕉は大阪で客死。
遺体は 弟子たちによって舟で淀川を遡り、
遺言通り、義仲寺に葬られます。 

フェノロサもロンドンへの旅の途中に倒れ、
火葬されますが、夫人の尽力により、
シベリア経由で日本へ遺髪が運ばれ、
生前の遺言通り三井寺法明院へ埋葬されました。

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by dendoroubik | 2011-10-28 18:00 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(2)

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万葉集から松尾芭蕉まで、
豊饒な文学の舞台となってきた近江の国も、
こと近現代文学となると傍流に追いやられたという感を免れません。 

滋賀出身の外村繁なんて、現在は 読まれることも稀
・・・どころか、よほどの文学オタク以外 
その名さえ知られていないんじゃないでしょうか。 

琵琶湖疎水も湖の取水口から下って、
京都側へ行くと その畔に 志賀直哉や谷崎潤一郎が
一時寓居を構え、作品にも描かれています。

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取水口から第一洞門まで・・・
その名前のわりには意外と短い滋賀側
(すぐに長等山のトンネルに入ってしまうので・・・) 
の琵琶湖疎水の畔に、少年時代の一時期を送った作家がいます。

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by dendoroubik | 2011-09-17 21:11 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(8)

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いまから20数年まえのことです・・・

はじめて滋賀にきて、高島市(当時は高島郡)の
安曇川の夜祭りをひやかしていると・・・
現在も活躍中の人気女性漫才コンビが、
みかん箱のうえで漫才をしていました。

  「安曇川って、なにが有名な~ん?」

という、ボケ方の女の子の問いかけに、
間髪を入れず会場から

  「藤樹先生!」

という声があがりました。

  「トージュ先生? 知らんなあ・・・
  ガッコの先生の名前ゆわれてもわからんわ・・・」

女の子の返しに、会場はすこしだけ凍りつきました(笑)

特産物とか名所とか・・・
そんな答えを想定しての問いかけに、
知らない人物の名が出てきたのですから、
女の子のリアクションも無理ないですね。
だいたい、歴史上の人物に「××先生」
という敬称をつけるのは、特殊な例で 
「先生」といえば、学校の教師や、
お医者さんなんかを指すのが一般的です。

お二人は、そこから地元ネタで
話を広げるつもりだったんでんでしょうが、
場の空気を読んでか、
すぐにさしさわりのない芸能ネタに切り替わってしまいました・・・

しかし、安曇川といえば、
これはもうなんといっても「中江藤樹」で、
「ナカエ・トージュ」なんて呼び捨てにできない・・・
「トージュ先生」と呼び慣わされるのは、現在も変わりません。

そんな安曇川の藤樹ゆかりの場所をぶらついてみました。

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by dendoroubik | 2011-03-01 22:33 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(4)

大津 堅田の芭蕉さん

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「奥の細道」の旅を終えた芭蕉さんは、
いったん故郷・伊賀上野に帰りますが、
1689年の暮れ、義仲寺の草庵に入ります。

1691年の晩秋に江戸に発つまで2年近く、
大津に留まりますが、その間、2度、を訪れています。

一度目は、1690年・9月、
近江で最も早く芭蕉の弟子になった
本福寺の住職・千那に招かれて2週間ほどの滞在。

  病雁(やむかり)の 夜寒に落ちて 旅寝哉

  朝茶飲む 僧静かなり 菊の花

  海士の屋は 小海老にまじる いとど哉

二度目は、翌年8月15日に義仲寺で月見の会をに催した翌日、
船くりだして、十六夜の観月句会に参加します。

  錠明けて 月さし入れよ 浮御堂

  やすやすと 出でていざよふ 月の雲

  十六夜や 海老煮るほどの 宵の闇

写真は、その日のありさまを記した
「堅田十六夜の弁」の碑と、バックに浮御堂・・・です。

堅田でよんだ句ではありませんが

  比良三上 雪さしわたせ さぎの橋

の句は、当時の滋賀県知事に
琵琶湖大橋を建設を決意せしめたとか・・・。

「大酒を飲み、遊里で遊び、
歌舞伎役者市川団十郎や豪商を友として、
およそ芭蕉と反対の生涯をすごした遊蕩児」(嵐山光三郎)
蕉門十哲の第一の門弟・其角の実家跡も、
ここ堅田、本福寺と光徳寺のあいだにあります。
by dendoroubik | 2011-01-25 23:31 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(4)

大津 堅田の蓮如さん

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急速に信徒を増やす真宗に対して、
比叡山延暦寺は僧兵三千人で本願寺を焼き打ち・・・
いわゆる 「寛正の法難」がおこります。

蓮如さんは親鸞の木像=御真影を背負い、
京都から大津へと逃れますが、
追い詰められて、それを三井寺に預けます。

なぜ、比叡山と同じ天台宗の寺に・・・?

同じ天台宗でも 両者は「山門」「寺門」と称し
互いに仲が悪く、三井寺としても蓮如さんを保護することで、
延暦寺に一矢むくいるつもりがあった・・・ともいわれます。

ところが、蓮如さんが北陸への布教から帰り、
その後 山科本願寺が完成(1480年)したのを機に
門徒衆が御真影を迎えようと赴いても、
三井寺はこれに応じません。 

  「返してほしいのなら、生首をふたつ持って来い」

勢いのある真宗への嫉視からか 
そんな無理難題をふっかけます。

堅田に 源右衛門と源兵衛という漁師の親子がいました。

この話を聞いいて・・・

  「わしらは 殺生を生業とする漁師。お役に立てるなら」

なんと源右衛門は愛息子の首を切りとって 
三井寺へと向かったといいます。

  「これは愚息の首です」
  「ふ・・ふたつの首・・・といったはず。も、もうひとつ首が足らない」
  「もうひとつはわしの首です。どうか打ち落としてください」

三井寺は親子の篤い信仰心に胸を打たれて 
御真影を返却した・・・と伝説は語りますが・・・
なんとなく 源右衛門さんの気迫におされて
のことではなかったのかな・・・とも思います。

源平衛さんの首は手厚く葬られ・・・
その後父源右衛門さんは、諸国を巡礼・・・
備後国で没したとも伝えられています。

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by dendoroubik | 2011-01-23 21:43 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(0)

大津 堅田の一休さん

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一休さんは、19歳のとき、師の西金寺・謙翁和尚を亡くします。

一休さん以外に弟子をとらなかった師の野辺送りを済ませたあと、
彼は石山寺に参籠・断食。 
満願の日、びわ湖、瀬田あたりで投身自殺をはかります。

講談本なんかでは、そこに母の使者があらわれて彼を助け出し、
舟で堅田へ送ることになるらしいのですが 
(水上勉『近江石山晴嵐町』) 史実はわかりません・・・.

ともかく、22歳の一休さんは 堅田の興禅庵の門をたたきます。

都の俗塵を離れてここに庵を結んでいた高僧・華叟は、
しかし、一休さんの入門を許しません。 
(容易には若い雲水の入門を許さない
「庭詰」という禅寺の習慣だそうです) 

数日後、招きいれた一休と華叟は


「一語投契し、孜々として参請」


つまり たちまち意気投合します。

先輩弟子たちのジェラシーを避けるために
師もことさらに一休さんを避け、
一休さん自身も、寺には住まず、
びわ湖岸の舟のうえで 
夜ごと座禅を組むのを常としていたそうです。 

食うや食わずの一休さんをあわれんで、
堅田のある漁師が、食物を与えていたという伝承もあるそうです。 

この伝承がほんとうなら、おそらくこのあたりでしょうか・・・

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by dendoroubik | 2011-01-21 07:09 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(6)

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やはり、滋賀のアイドルといえば、この方々でしょうか^-^
「ゆるキャラ」を生む基盤は、このあたりにあったんでしょうか・・・

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by dendoroubik | 2010-12-24 23:56 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(6)