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カテゴリ:◆近江の祭 湖西( 15 )

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秋分の日、滋賀県高島市安曇川町川島の
阿志都弥神社で「御牢開神事(みろうびらきしんじ)」
という神秘的な神事を拝見してきました。

またの名を「牢切り(ロウキリ)神事)」

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ロウキリ神事で、「きょうの沙都」の沙都さんと
たまたまお会いし、その後、同じ高島市でおこなわれた
珍しい神事へごいっしょさせていただきました。

何という神事かも知らずに赴き、
主な舞台が波爾布(はにふ)神社なので、てっきり
こちらの神社のお祭りかと思い込んでいましたが、
「木津(こうず)」の歴史を書いた本によると、
出発地の「健速(たけはや)の神事」とあります。

「健速神社」では、かつて春と秋に神事講がおこなわれ、
「波爾布大明神に初穂を献ず」る秋の神事が、
この神秘的なお祭りのもとになっているようです。

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応神天皇の四世孫、彦主人王とその妃、振媛を祭神とする
滋賀県高島市安曇川町常盤木の三重生神社。

「三重生」と書いて「みえう」「みおう」と読むようですが
「みょう」と呼び習わされているようです。

彦主人王と振姫は、男大迹王・・・26代、継体天皇の父母。

4月29日・・・
(明治維新以前は、ふたりの命日とされる2月18日)
「うしの祭り」と呼ばれる例祭がおこなわれます。

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毎年、4月18日、滋賀県高島市でおこなわれる「川上祭」。

日置神社(酒波)、津野神社(北仰)の祭礼ですが、
両社は、古く「川上庄」の惣社でしたので、
参加する氏子は、旧今津町北部と
旧マキノ町の一部・・・と、広範囲にわたります。

とくに豪華な曳山や
装飾品などが登場するわけでもないこの祭りが、
見る人に、とても壮大な印象を与えるのは、
この参加者の夥しさが一因をなしているかもしれません。

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滋賀県内に10も伝承されているという曳山のひとつ、
湖西唯一の曳山のある「大溝祭」。 2度目の訪問です。

間口が2メートル強、奥行きが3メートル強、高さは5メートルほどの
コンパクトな曳山が、田園を曳行される姿は、
「曳山」が持つ一般的なイメージ・・・壮麗さとか、豪華絢爛・・・
といったイメージから離れた光景かもしれませんが、
ちょっとほかに例がない、不思議な魅力があります。

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「七川まつり」は2度目ですが、
やはり、もっと知られてもいい、
すばらしい祭りだと思いました。

鳥居から社殿石段下までつづく、長い桜並木の馬場。
ここで繰り広げられる奴振りと流鏑馬・・・

疾駆する馬と、超スローモーな奴(やっこ)。
美しい所作と下品極まりない警句。

相反するものが混然となって、
しかも調和を保っている・・・、
一言でいうなら、それが七川まつりの魅力じゃないでしょうか。

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「こんなスゴい祭りが、
あまり知られていないなんて理不尽ではないか!」

そう思わずにいられない祭りがいくつもあります。

「〇〇三大祭」という著名な祭りでもなく、
奇祭・・・というカテゴリーで
すくいあげられることもないものの、
やはり、これはスゴい!
・・・とう唸らずにはいられない祭りはいくつもあり、
さしずめこの七川まつりは、その最右翼です。

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ちょっとそこのピンクのケータイのお姐さん!
大人のおもちゃか、思いましたわ!

美しい衣装と踊りを見せる、奴振りの最後尾の樽奴。
ふたりのイケメンがこんなヒワイな言葉を発しながら、
昼下がりの大荒比古神社の馬場を練ってゆきます。

それにしても・・・。

昨日見たケンケト祭は、信長の甲賀攻めに加担した農兵の物語。
この七川まつりは、近江源氏の物語。

やっぱり、滋賀県はスゴいですわ(笑)
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海津まつりは、毎年4月29日に行われる
海津天神社の春の例大祭。 

御輿2基が、海津天神社から海津、
西浜の各氏子をまわるという、
とくに珍しいところのない行事がメインですが、
特徴的なのは御輿を担ぐ若衆が、
色鮮やかな化粧まわしを着けていることです。 

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高島市今津の川上神社、津野神社は
旧川上荘三十二ケ村の総社で、
毎年4月18日、両社で川上祭(サンヤレ祭)がおこなわれます。

今年は東日本大震災を受けて
平ヶ崎馬場の御旅所での、サンヤレ踊りや
流鏑馬、競べ馬などは中止され、
両社での式典のみがおこなわれました。

この祭は、源平時代、
負け戦としておこなわれたことに起源をもつ、
農民の五穀豊穣への祈りがこめられたものだ
・・・といわれます。

(当時の近江は、領地の大半が佐々木氏を治めていました)

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