2017年 02月 15日
加賀橋立
江戸時代半ばまでの橋立は、とりたてて特色のない半農半漁の集落。
近江商人に引き立てられて北前船の船乗りとなった漁師のなかから
独立して船主になる者が現れ、徐々に廻船業で栄えるようになります。
100隻以上の船を有していたといいますから、繁栄ぶりが推し量れます。
加賀藩の支藩大聖寺藩は、確たる経済基盤がなかったにもかかわらず
「100万石の分家」の格式にこだわって石高直しをおこなったり
浪費家の藩主がつづくなどしてたえず財政が窮乏していたといわれます。
それでもなんとか幕末まで面目を保つことができたのは
莫大な富を蓄えた橋立の船主たちの上納した御用金のおかげといわれます。
大聖寺藩は有力な船主を士分格に登用したり、武士に取り立てて城下に居を構えさせたりもしています。
現在、加賀橋立には十余りの船主の邸宅が残り
「北前船の里資料館」(旧酒谷長兵衛邸)「蔵六園」(旧酒谷家別邸)が公開されています。
外観以上に、内部は豪華絢爛・・・
加賀橋立の集落を歩いていて何より驚かされるのは町並みの統一感です。
船主の大邸宅と船乗りの民家とがまったく違和感なく調和しています。
同じ仕事に従事しているという当時の一体感のあらわれでしょうか・・・
統一感を醸し出している要素のひとつは赤褐色の屋根瓦。
藩政時代には武士階級にしか許されていなかったものだそうですから
おそらく明治の大火のあと再建された折りに葺き替えられたのでしょう。
江戸の記憶もまだ新しかったその頃・・・自分たちこそが
藩を支えていたのだという気概がそうさせたのかもしれません。
当初は山陰地方の赤い石州瓦を使っていたそうですが
その頃には大聖寺で大量生産できるようになっていたようです。
町並みの統一感を齎しているもうひとつの要素は、建物や塀の基礎や石垣、石段や石敷にも使われている笏谷石。
越前足羽山から採掘され北前船の積荷でもあった高価なもので石垣に使われる場合、その高さは権力と富を表しているといわれます。
赤褐色の屋根、笏谷石・・・に加えて建物の縦板張りも加賀橋立の町並みに統一感を与えている大きな要素です。
海岸線に近く潮風から家屋を守るためのものですが木造船の古材の再利用というのがいかにも北前船の町らしく趣きがあります。
大聖寺で「竹割り祭り」を見たあとに立ち寄りました。
時おり、集落の外が見えなくなるほどひどく吹雪き
それでなくても時代から隔絶した北前船の集落をますます浮世離れしたものに見せているようでした・・・
dendoroubikさん
北前船で栄えた町並みが、当時のまま残っているなんて浪漫を感じます。しかも十余りも邸宅が現存!?
加賀橋立、散策しがいがありますね!
こんばんは!
北前船で栄えた町には独特の雰囲気があって
ぶらぶら散策するのが好きなんですけれど
「町並みの保全度」でいえば能登の天領黒島と
この加賀橋立はズバ抜けていますね
黒島は真夏の真昼 橋立は吹雪の夕暮れに訪ね
どちらも観光客がほかにいないこともあってとても幻想的でした
琵琶湖ビエンナーレといい加賀橋立といい、旅心を誘われる記事と写真をありがとうございます。
統一感がある町並みは本当にいいですね。絵になりますね。保存にはご苦労があるとは思いますが・・・
昨日だったか、京都の最古の町屋が取り壊されたという記事をみかけて、部外者ながら心が痛みました。
新聞記事 自分も読みました
京都市も止められなかったみたいですね
惜しい気がしないでもありませんでしたけれど
考えてみると「統一的な街並み」というのは
ちょっと「開発から取り残された場所」のみに可能なもので
京都の市街地にはそんなものは そもそもないのかもしれませんね(^-^
デビッド・ボウイは来日すると京都なんかへは行かず
nanaさんがお住まいだったという千里ニュータウンなんかを眺めてまわった
ってことを ずっと以前に聞いたような気がします
カオスなりの統一感がでれば乙なのですが、たいがいは殺伐とした市街地になり果てていますね。
当方、アメブロの昭和40年代千里ニュータウン仲間(ネットでつながってるだけ)から先ほど得た情報では、
あそこはクラレンス・A・ペリーという方が提案した近隣住区論で計画されたそうです。
デビット・ボウイが散策していたとは、本当ならうれしいです。さすがのセンスです(笑)
それから細かいことで恐縮ですが、私はnanaではなく、manaです。娘にはnanaというのがいます。
漢字だと「麻奈」なのです、どうぞよろしく・・・
前のコメントの宛名もまちがっていましたね
たいへん失礼しました<(_ _)>
京都の景観条例はなかなかにキビしく
名神高速の京都南インターのラブホテル街も
いまではすっかりリゾートホテルのような佇まい(笑)
伝統的な景観を保持することは成長しつづける街では不可能に近く
成長している街では不可能に近いのでしょうから
次善の策としては致し方ないのかもしれませんが
なんだか いまの京都を見ていると
「京都」というイメージのパロディに思えて仕方ありません