2016年 08月 30日
がんがら火
池田を見下ろす五月山の山頂に鎮座する「愛宕神社」
こちらの神火より採られた2本の小松明が麓まで担ぎおろされ
4本2基の大松明にその神火が遷されて市街地を練り歩く・・・というのが行事のあらましです。
「がんがら」というのは、練り歩きのときに打ち鳴らされる鉦と半鐘の音に由来するようです・・・
猪名川沿いの池田の市街地とその向こうには川西、宝塚方面
斜面に立てられている鉄パイプと鍋、そのうえに乗せられた割り木は
池田市近辺以外ではそれほどの知名度がないこの祭りのスケジュールや由来にとどまらず
当事者以外は知りえないウラ話なんかも書かれていてとても興味深い本でした。
この本によるとこの篝火につかわれるのは
黒松の中でも特にヤニを多く含んだ「肥松」と呼ばれる松の割り木。
この入手も、現在は困難を極めているそうです。
祭典のあと、本殿から神火から火鉢に遷されます。
火ダネが燃えあがると、塩、酒で浄められた2本の小松明が左右から炎にかざして神火が遷されます。
「大一」の火文字のタネ火となる篝火に火が遷されたあと
小松明は燃えすぎないように水をかけて調整されます。
小休止してすぐに出発し、ドライブウエイをくだってゆきます。
この祭りの興りはとてもユニークです。
池田は、猪名川を挟んだ伊丹と同じく灘よりも早く清酒の醸造で栄えた町。
正保元年(1644)4人の小酒造業者が五月山山上で火を灯し箱を竹に立てて
「池田に愛宕火が飛来した!」
・・・というデマを流したところ近在の善男善女が競って参集。
火除けの護符を配札して大いに繁盛していたところ京都愛宕神社からクレームがつき
五月山の「大」「大一」の火文字がいつはじまったのかはわからないそうですが
19世紀はじめ頃の文献には見られおそらく化政年間に
大松明の練り歩きが加わったのは、さらに時代が下って昭和3年・・・
ドライブウエイの料金所ゲートを抜けた小松明は動物園の脇で小休止したあと住宅地へつづく階段を
選ばれたひとりの青年に担がれて一気に下りさらに大松明の待つ場所まで坂道を駆け降りてゆきます。
点火された大松明は、水で火加減を調整され刺又をあてがわれながら垂直に立てれます。
・・・といわしめた「呉春酒造」の黒壁をすり抜けるあたりは
とても艶めかしくスリリング。 見どころのひとつでしょう。
寝かせて火力を調整しながらじわじわとすすみます。
がんがら火が盛りあがりをみせはじめたころ
ふと目をあげると大明ヶ原の「大」の火文字が宵闇に妖しく浮かびあがっています。
(「大一」の方は見逃してしまいました)
「大」と「大一」の火文字は同時刻に点火され
先に記したように起源は同根なのでしょうけれど
実はこちらは「がんがら火」(城山町)とは別の行事。
京都の愛宕神社から貰い受けた神火で燈し
子どもたちの松明行列で「呉服伝説」の伝わる「星の宮」に奉納されます。(建石町)
以前は「がんがら火」と「猪名川花火大会」が同日におこなわれていたそうですが
諸事情により、花火大会は第三土曜に変更。
祭りの方が8月24日という日に拘っておこなわれるのは
「火之迦具槌神」とその本地仏である地蔵菩薩を祀るものだからで
縁日8月24日に地蔵盆とともにおこなわれています。
おおむね大阪は、京都や滋賀ほど地蔵盆の風習が根強く残ってはいませんが
やはりこの日は辻辻のお地蔵さんに献灯の提灯が吊るされていました・・・
クライマックスを迎え、その後、お旅所2ケ所の地蔵尊に神火を納めて鎮火。
今年は事情でパスしていました。但し私は毎年池田市庁舎で待っていますか゛(笑)
がんがらが到着するまで、昨年は太鼓演奏に酔い、
数年前は箕面の可愛い子供たちによるサンバが!
余談ですがそのサンバグループは今やプロとして活躍中です。
そしてご存知ですか、フォークデュエットのシモンズ!
その一人、田中ユミさんは池田の住人で、現在も地元でご活躍ですが、
がんがら火祭りで久々お会いして懐かしいお話しを(笑)
来年は又撮影に行く積りですが・・・
シモンズ ギリギリ知ってます(笑)
お二人とも大阪のご出身とは存じておりましたが
そうですか 池田にお住まいなんですね
がんがら火は花火大会とは切り離されましたが
市民フェスと同時開催になったんですね
今回は初めてでしたので五月山から見てみましたが
次回はそちらも覗いてみたいと思います
駅前に屋台も出てましたのでそちらで呑んで帰りました(笑)
しかし伊丹から池田までは車ではすぐなのに
阪急だと十三からぐるっとまわってけっこうかかりますね(^o^;