2015年 06月 14日
光徳寺再訪
富山県に単身赴任をしていたとき以来、7年ぶりです。
蓮如上人の真筆など、寺宝も豊富な真宗寺院ですが、このお寺が全国的にその名を知られているのは、むしろ、
民藝運動の主導者、柳宗悦や河井寛次郎たちの作品を多く所蔵、展示していることによります。
昭和のはじめ、このお寺の18世住職、高坂貫昭氏は民藝運動に共鳴。
河井寛次郎との交流のなかで棟方志功と知り合い、棟方もたびたび光徳寺を訪れるようになります。
昭和19年5月、光徳寺を訪れていた棟方。
貫昭氏に襖絵を描くことを依頼され、思案しながら裏山を散策中、突如激しい霊感にとらえられ
(『富山福光疎開時代 棟方志功作品集』より(東方出版))
有名な絵画の実物を見ても、
「あー。見た覚えある」
・・・と、いう程度の感想しか浮かばない乏しい感性しか持ち合わせていない僕も
光徳寺ではじめてこの襖絵を見たときは、絶句するほど感銘を受けました。
終戦間際の翌、昭和20年から、6年8ケ月、棟方志功はここ福光に疎開することになります。
棟方が疎開をはじめた翌年、同じ南砺市城端の善徳寺を訪れた柳宗悦は
寺宝のひとつ「色紙和讃」の装丁の美しさに強いインスピレーションを受け
その2年後、善徳寺を再訪、逗留し、彼の半世紀にわたる思想の総決算『美の法門』をたった1日で書きあげたといわれます。
「富山では、大きないただきものを致しました。 それは『南無阿弥陀仏』でありました」(棟方志功『板極道』)
疎開以降、棟方志功の作風はガラリと変わります。
柳宗悦が「土徳」と呼ぶ、富山という真宗王国に根づいた他力本願の風土が棟方の心をひらいていったのだともいわれます。
「自分は道具になって働いているだけ。
自分の仕事ではなく、いただいた仕事なのだ」(同)
数年まえに、棟方志功の自伝『板極道』(中公文庫)を読んでみたのですが
学生時代に読んだ『美の法門』の印象深い文言が、何度もこだまするような気がしたものです。
先日、思い立って本棚から岩波文庫を取り出しベッドのうえで再読してみたのですが
3分もしないうちに極楽浄土(睡眠)に誘われてしまいました(笑)
「無量寿」昭和19年。
それまでは書こうとしなかった書を書きはじめたのも福光時代。
近郷の豪農の館を移築した「躑躅飛閣」という庫裏には、先のご住職が蒐集されたという世界の民芸品が展示されています。
これらも「美術品」というよりも、生活のなかから生まれた「民藝」・・・
なぜか郷愁を誘われる音色・・・
とても心地よい空間・・・
桑山も躑躅の院も秋ならむ
その裾山の竜胆咲けるや
疎開から引きあげた後に詠んだ歌です。
戦時中、軍に献納された梵鐘が蓮如上人の450回遠忌に新たに鋳造される際、文字と絵を棟方が描いています。
鋳造で絵を表現することができなかったため、棟方志功が鐘に直接絵を描き、彫金師がその線に沿って彫ったのだそうです。
河伯の絵を描いたらネ。
写生かと言われてね。
成程と感心しちゃったんですよ。
瞞着(だまし)川・・・なんていい名前!
川沿いを散策したり、当時のままに移築された寓居なども
再び訪ねてみたかかったのですが、ここで時間切れ・・・砺波市の宿へ向かいました・・・
棟方志功作品は大好きです
彫刻刀の勢いを感じさせ
周囲を圧倒する独特の眼力
ピカソと相通じるような作風
棟方志功を始めて知ったのは
就職しした年の暮れに
出入りの業者さんから頂いたカレンダーでした
それまで持っていた版画の概念がふっ飛びました
ふだんは僕も(マンガ以外の)絵なんか見ないのですが
7年まえにこのお寺で拝見した襖絵には衝撃を受けました
昨年 青森にねぶたを見に行ったときも
棟方志功記念館へ行き 十代弟子などに感動しました
そこで放映されていたビデオには
ねぶた祭りでハネトとして踊っている棟方の姿が映されていて
この人も祭りが好きだったんだなあ
・・・と改めて好きになりました(笑)