若狭 お水送り 前篇

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2月の終わり頃から3月の半ば頃までおこなわれる祭りや行事には

 「春を呼ぶ」

といった修辞が冠せられるものが多いですね。

なかでも奈良、東大寺の修二会・・・といいますが「お水取り」の行事は、
じっさいにどんなことがおこなわれているか知らない人でも
(・・・僕もその一人ですが)  

 これが終わらなければ春が来ない

・・・と、つい口にしてしまうほどとくに関西人には馴染み深いものです。

3月12日、深夜、閼伽井屋(若狭井)にて香水を汲む「お水取り」の行事。
それに先立つこと10日前の3月2日夜、
奈良より遠く離れた若狭の山間を流れる遠敷川のほとりで
この閼伽井屋に香水を送る「お水送り」という行事がおこなわれます・・・。




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福井県小浜市市街地から、南東に車で10分ほど。

「お水送り」の行事がおこなわれるのは、遠敷川沿いの3ケ所。
下流から、若狭神宮寺、鵜ノ瀬、下根来(しもねごり)の八幡社。
もともとこの行事がおこなわれていた若狭彦神社は、さらに下流に鎮座し
そのあたりは住宅地ですが、上流へ溯るにつれ、人家もまばらになってゆきます。

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午前中におこなわれる下根来の「山八神事」は、非公開なので、まず鵜ノ瀬のあたりを散策。

鵜ノ瀬から山側へ少し登ると、若狭彦神社境外社の白石神社があります。
社伝では、若狭彦大神 (彦火火出見尊)と若狭姫大神 (豊玉姫命)の二神が
最初に示現した場所とされています。

その姿は唐人のようだった・・・といいます。

また、鵜ノ瀬には、こんな案内看板が掲げられていました。

東大寺を開山した良弁(ろうべん)僧正は、
相模国の出身とも、近江国出身ともいわれます。
母が目を離した隙に鷲にさらわれ、
奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを
義淵に助けられ、僧として育てられた
・・・というのは、よく知られた伝説です。

ところが、鵜ノ瀬の案内板には、良弁はここ、下根来の白石出身とされ
大仏建立の際には、若狭で修行中だったインドの渡来僧
実忠(じっちゅう)を招いた・・・とあります。

天平勝宝 4(752)年、東大寺二月堂を建立し
修二会(しゅじえ)を開いたのが、この実忠です。

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午後からはじまる「弓打神事」を見るため、神宮寺へ。

室町時代の楼門をくぐって、参道をすすみます。

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参道の右手には円蔵院と桜本坊があり
「お水送り」は桜本坊のご住職が受け持たれます。

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元明天皇の和銅7年(714)創建。

鎌倉時代、若狭彦・姫大神の二神を迎え、
若狭彦神社の別当寺となった頃には、七堂伽藍二十五坊を誇るも
豊臣時代の寺領没収、さらに明治初期の廃仏毀釈で衰微します・・・。

明治の廃仏毀釈で、各地の神宮寺は、ほとんどが破却されてしまったそうですが
この若狭神宮寺は、若狭彦神社の奥宮が破壊され、神宮寺本堂が残されたという珍しい例です。

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そのためか、こちらでは仏様に、合掌ではなく、二礼二拍一礼で参拝します。

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「お水送り」の香水が汲みあげられる閼伽井戸。

 「香水を送る」

・・・といっても、若狭神宮寺の閼伽井で汲みあげられた水を
奈良まで運んでいく・・・というわけではありません。

冒頭の写真のように、香水は遠敷川に注がれます。

この淵は、東大寺までつながっていて
注ぎ込まれた水が10日後の12日
東大寺の閼伽井屋(若狭井)に湧き出してくるのだされているのです。


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午後1時「弓打神事」がはじまります。

まず、八幡宮六役の最下位の当役が、二矢を放って悪魔怨霊を払います。

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つづいて、弓道範士の四方祓の射式。

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そのあと、弓道家による弓射大会がおこなわれます。

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日没後におこなわれる修二会まで、行事はありません。

小浜で遅い昼食をとったり、明通寺に参拝したりして時間をつぶします。

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「お水取り」の解説を読むと、
必ず登場するのは、「東大寺要録」にある、この行事の名の由来となった話です。

天平勝宝4年(752)
実忠和尚が二月堂の十一面観音のまえで、はじめて修二会をおこなったときのこと。
「神名帳」を読みあげ、諸国の神々を勧請。
若狭の遠敷(おにゅう)明神は釣りに夢中で遅刻してしまうのですが
ありがたい行法を見て随喜。遅参のお詫びとして
十一面観音に閼伽水を献じることを約束。
時に白と黒の鵜が盤石より飛び立ち、地中から霊泉が湧出
・・・これが今に残る東大寺の閼伽井(若狭井)で、
この香水を観音に捧げることが「お水取り」の名の由来だ・・・と。

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奈良と若狭が水脈でつながっている
・・・というこの伝説は、よく知られていたことのようで、
白洲正子の「若狭のお水送り」という随筆のなかで、(『十一面観音巡礼』所収)
井原西鶴の「水筋の抜け道」(『諸国噺』)に描かれた、こんな話が紹介されています。

若狭小浜の「越後屋」という商家に、年期奉公をつとめていた、ひさ、という女中が
女房のいじめに堪えかねて海に身を投げます。

一方、大和秋篠では、用水の池を掘るもなかなか水脈に当たらず
ようやく三日二夜目、轟音とともに大量の水が吹きあげてきます。
水が収まった翌日、池のなかに若い女性の遺体が。

東大寺の修二会に参籠していて、たまたま居合わせた若狭の旅人が
着物や持ち物から若狭の女性とさとり、
あわれに思って、ねんごろに葬った・・・という話です。

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午後6時まえ、法螺貝を吹き鳴らす山伏の先導で、練行衆が桜本坊から本堂へ上堂。

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白い烏帽子をつけておられますが、
なかに一人、黒い烏帽子の方がおられるそうで
(見つけることができませんでした・・・)
先の「若狭のお水送り」という随筆によると、
この方は、良弁僧正の生家の子孫で
「原井太夫」を名乗り、この行事の中心人物、とあります。

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練行衆のこの装束がエキゾチックです。

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白洲さんは、この白黒の烏帽子は
二月堂の閼伽井が湧出したとき飛び立ったという、
白黒の鵜を象ったものではないか、と書いています・・・。
by dendoroubik | 2015-03-11 12:21 | ◆若狭の祭 | Trackback | Comments(2)
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Commented by nararanran at 2015-03-11 21:01
二月堂の手水の屋根の四隅には
良弁僧正が鷲にさらわれたようすや
二月堂で別れた母君と再会した様子などが彫られています。

ありがたいお写真を拝見させていただけて
ありがとうございます。

Commented by dendoroubik at 2015-03-11 21:52
☆らんさん

昔 奈良の隣の木津川市に住んでいたことがあり
東大寺には足繁く通っていたのですが
手水の屋根の彫刻には気づきませんでした
今度 見てみたいと思います

近江の百済人だった良弁が鷲にさらわれた
・・・という話はよく聞きますが
若狭の人だったという伝承はこの日はじめて知りました
いずれも東大寺の造営に関わりのある土地
・・・ということをあらわしているのでしょうか・・・?