2014年 12月 28日
弘前 Ⅱ
岩木山を眺めるたびに、決まって雲がかかり、
ついぞその頂上を拝むことはできませんでした。
朝食まえ、早朝は入場無料の弘前城を散策していると、
ご年配の方々がウォーキングの途中、
岩木山を正面に展望できる場所から、
まるで決まり切った儀式でもあるかのように、
必ず山へ向い、二礼二拍一礼する姿を見かけました。
湿度が多い、夏の淀んだ空気を通してみても、
岩木山の秀麗な姿は、神々しく眼前迫ってきます。
神体山というのは、こういう山のことをいうのだなあ
・・・と、妙に納得させられてしまいました・・・。
帰宅してから『日本百名山』の「岩木山」の部分を読み返してみると、
「山に委しい人ならば、その頂上の部分に、
いわゆる三峰三所大権現のその三峰(鳥海、岩木、巖鬼)を判然と認め得よう」
・・・とありました。
頂上を拝むことができなかったのが、返す返すも残念です・・・
標高1600メートルにすぎないこの山が、
こんなに雄大に見えるのは、
秀麗な山容に加えて、
裾野へ向かう稜線がゆったりとしているからでしょう。
「岩木山はやはり弘前のものかもしれない」
・・・としながらも、故郷、五所川原金木から眺める
「端正で華奢な姿」も忘れられない・・・というのは、太宰治です。
優劣をつけるわけでもなく、弘前からの眺めを、
「重くどっしりとした」・・・と並列的に書いてはいるのですが、
あきらかにお国自慢な書き方ですね(笑)
いったいどんな姿なのか、
翌日、ちょっと意地悪な気持ちで金木から眺めてみたのですが、
あいにくの曇天で、岩木山の姿はまったく見えませんでした(笑)
行きの新幹線のなかで、太宰治の『津軽』と
司馬遼太郎の『北のまほろば』を交互に読み返していました。
そのせいか、津軽為信にていては、
南部から津軽を掠め取った男
という、一般的なイメージとは
いくぶん、ちがう思いを抱かずにはいられませんでした。
「為信は津軽を再構成した」
『北のまほろば』にあります。
「掠め取った」と「再構成」では、180度捉え方がちがいますね。
南部がら「掠め取られ」て、新しい国がつくられたのか、
それとも、未分化であっても、もともとあった国が
為信によって明瞭に「再構成」されたということなのか、
歴史の通説がどう捉えているのかは知りませんが、
「津軽」という国は、東北に限らず、全国でもっとも名が知られ、
しかも強烈な個性を放つ国のひとつとして
日本人に認識されていることは間違いないでしょう。
その「津軽人の魂の拠りどころ」(太宰治)こそ、
為信が着手し、信枚が完成させた弘前城。
本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、
西の郭の6郭から構成された雄大なお城です。
現在も堀や石垣など、城郭の全容が
ほぼ廃城時の原形をとどめていて、
8棟の建築と天守1棟を、今も見ることができます。
これも司馬遼太郎の受け売りですが・・・
四万七千石にすぎなかった津軽藩が、
三十万石相当のこの城を、本州最北端の国に、
しかも築城ブームで、技術者が払底するなか
築きあげたというのは、奇跡のような偉業です。
もちろん「南部」にも、こんなものはありません。
現前12天守のひとつで、本丸唯一の現存建築です。
約50種2,600本の桜が咲き誇る、
全国屈指の桜の名所としても知られていますね。
というよりも、弘前城といえば、
いまや、桜のイメージの方が強いかもしれません。
ニュース映像に必ず登場するのがこの天守です。
三重天守にしては小さく思えますが、
もともとは、北側に多聞櫓を付属させていたそうです。
築城当初は10棟の城門があり、
現在は、この南内門を含め5棟の城門が残されています。
二の丸の現存櫓は、この丑寅櫓、3層の辰巳櫓、未申櫓の3棟。
辰巳櫓。
お城好きならずとも、見応えがあります。
築城時、工期の短縮などのため、
いくつかの建造物が周辺の城郭より移築されており、
この北の郭北門(亀甲門)も、大光寺城から移築されたもの。
門を出ると、堀端に、藩の御用を務めた豪商、石場家住宅があります。
亀甲町と呼ばれるこの一筋の町人町を挟んで、
その北に武家屋敷が配置されていました。
四代藩主信政によって変更されるまで
弘前城の追手門(表門)が亀甲門(北門)とされました。
この追手門(現在の亀甲門)の守護に
津軽藩士の住まいが建てられました。
当時の地割りをそのままに、
道沿いに池垣や板塀、数軒の武家屋敷が残り、
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。