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弘前 Ⅱ

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岩木山を眺めるたびに、決まって雲がかかり、
ついぞその頂上を拝むことはできませんでした。


朝食まえ、早朝は入場無料の弘前城を散策していると、
ご年配の方々がウォーキングの途中、
岩木山を正面に展望できる場所から、
まるで決まり切った儀式でもあるかのように、
必ず山へ向い、二礼二拍一礼する姿を見かけました。

湿度が多い、夏の淀んだ空気を通してみても、
岩木山の秀麗な姿は、神々しく眼前迫ってきます。

神体山というのは、こういう山のことをいうのだなあ
・・・と、妙に納得させられてしまいました・・・。



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帰宅してから『日本百名山』の「岩木山」の部分を読み返してみると、

「山に委しい人ならば、その頂上の部分に、
いわゆる三峰三所大権現のその三峰(鳥海、岩木、巖鬼)を判然と認め得よう」


・・・とありました。
頂上を拝むことができなかったのが、返す返すも残念です・・・

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標高1600メートルにすぎないこの山が、
こんなに雄大に見えるのは、
秀麗な山容に加えて、
裾野へ向かう稜線がゆったりとしているからでしょう。

「岩木山はやはり弘前のものかもしれない」

・・・としながらも、故郷、五所川原金木から眺める
「端正で華奢な姿」も忘れられない・・・というのは、太宰治です。
優劣をつけるわけでもなく、弘前からの眺めを、
「重くどっしりとした」・・・と並列的に書いてはいるのですが、
あきらかにお国自慢な書き方ですね(笑)

いったいどんな姿なのか、
翌日、ちょっと意地悪な気持ちで金木から眺めてみたのですが、
あいにくの曇天で、岩木山の姿はまったく見えませんでした(笑)

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行きの新幹線のなかで、太宰治の『津軽』と
司馬遼太郎の『北のまほろば』を交互に読み返していました。
そのせいか、津軽為信にていては、

南部から津軽を掠め取った男

という、一般的なイメージとは
いくぶん、ちがう思いを抱かずにはいられませんでした。

「為信は津軽を再構成した」

『北のまほろば』にあります。
「掠め取った」と「再構成」では、180度捉え方がちがいますね。

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南部がら「掠め取られ」て、新しい国がつくられたのか、
それとも、未分化であっても、もともとあった国が
為信によって明瞭に「再構成」されたということなのか、
歴史の通説がどう捉えているのかは知りませんが、
「津軽」という国は、東北に限らず、全国でもっとも名が知られ、
しかも強烈な個性を放つ国のひとつとして
日本人に認識されていることは間違いないでしょう。

その「津軽人の魂の拠りどころ」(太宰治)こそ、
為信が着手し、信枚が完成させた弘前城。

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本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、
西の郭の6郭から構成された雄大なお城です。
現在も堀や石垣など、城郭の全容が
ほぼ廃城時の原形をとどめていて、
8棟の建築と天守1棟を、今も見ることができます。

これも司馬遼太郎の受け売りですが・・・

四万七千石にすぎなかった津軽藩が、
三十万石相当のこの城を、本州最北端の国に、
しかも築城ブームで、技術者が払底するなか
築きあげたというのは、奇跡のような偉業です。

もちろん「南部」にも、こんなものはありません。

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現前12天守のひとつで、本丸唯一の現存建築です。

約50種2,600本の桜が咲き誇る、
全国屈指の桜の名所としても知られていますね。
というよりも、弘前城といえば、
いまや、桜のイメージの方が強いかもしれません。
ニュース映像に必ず登場するのがこの天守です。

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三重天守にしては小さく思えますが、
もともとは、北側に多聞櫓を付属させていたそうです。

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築城当初は10棟の城門があり、
現在は、この南内門を含め5棟の城門が残されています。

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二の丸の現存櫓は、この丑寅櫓、3層の辰巳櫓、未申櫓の3棟。

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辰巳櫓。

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お城好きならずとも、見応えがあります。

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築城時、工期の短縮などのため、
いくつかの建造物が周辺の城郭より移築されており、
この北の郭北門(亀甲門)も、大光寺城から移築されたもの。

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門を出ると、堀端に、藩の御用を務めた豪商、石場家住宅があります。
亀甲町と呼ばれるこの一筋の町人町を挟んで、
その北に武家屋敷が配置されていました。

四代藩主信政によって変更されるまで
弘前城の追手門(表門)が亀甲門(北門)とされました。
この追手門(現在の亀甲門)の守護に
津軽藩士の住まいが建てられました。

当時の地割りをそのままに、
道沿いに池垣や板塀、数軒の武家屋敷が残り、
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
by dendoroubik | 2014-12-28 16:52 | 青森 | Trackback | Comments(0)