2012年 05月 02日
湖南 日枝神社のお田植えまつり
高松宮献穀田として設けられています)をきっかけに、はじめられたのかもしれません。
日枝神社は、14世紀のおわり頃、下田が開発されたときに坂本の日吉大社の分霊を勧請して創建されたものですが、
天保の頃には有栖川宮詔仁親王より、明治にも有栖川宮成仁親王より額字を賜ったという縁故があり
その関係を田植え踊りというかたちで子供たちに伝えようとしたのではないか・・・というのは僕の妄想です。
昭和9年には日枝神社の春の例祭の奉納行事としておこなわれるようになりました。
湖南市下田・・・といっても、県内でもピンとくる人は少ないんではないでしょうか。
おそらく、滋賀でもっともポピュラーな漬物製造メーカー「やまじょう」さんの本社工場があるくらいで
午後1時、下田小学校5.6年生の女の子41名が
黄色、緑、赤の色鮮やかなお田植え衣装に手甲、脚絆、菅笠をつけ、わらじばきで石段下に集まります。
緊張の面持ち・・・
早乙女たちが本殿へ向かって一礼。 お田植え踊りがはじまります。
「一つ ひのえの やしろも高く・・・」
と、一から十までの数え唄が太鼓のリズムに合わせて謡い踊られます。
「田植え踊り」・・・を辞書でひくと・・・
苗代づくり、田植え、稲刈りなどの稲作作業を模する所作を舞踊化したもので
その年の豊年を祈願する 『予祝』 の意味を持つ芸能」・・・とあります。
この日のために練習をつんだ甲斐あって、可憐でみごとな踊りでした。
10分足らずで終了してしまうのがちょっと残念・・・このあと、2基の子供御輿が町へ担ぎだされます。
皆御化粧して可愛いですね!
今年も豊作でありますように・・・
実は僕も この緑色の装束で蛙を連想してました
白は白米 黄色は稲穂かな・・・でも赤は?・・・祭の色?・・・とか^-^
小学生のとき 豊作による値崩れを抑えるため 農産物を川に流す・・・という話を聞き とても理不尽な思いを抱いたのをおぼえています
思えば・・・豊作が必ずしも慶賀されるもででなくなったあの頃から
日本はおかしくなっっていったのかな・・・
30分くらい踊るのかと思っていたら 5分強で唐突に終了してしまいました^_^;
選んでいるほどの時間もありませんでしたが 先頭の女の子は踊りもうまくて
たたずまいも品がありましたね
昨日は滋賀米原の「磯武者行列」と「鍋冠まつり」という子供が主役のふたつの祭りを見物してきました
子供の顔というのは芸術品ですね!
下田は、「下田焼」でも知られています。
一時、後継者が途絶えたけれど、また始められていて、
湖南市伝統工芸会館に、確か工房があって、
展示即売されてたハズ・・・久しく行ってないんですけど(苦笑)
あと、正藍染めの「紺喜」さんも知られてますよ。
米原のお祭りのアップ、楽しみです~
祭りがはじまるまえ町をぶらぶらしているとき 下田焼きとか紺喜さんのことを書いた観光案内が目につきましたが
やはり うずらさんのようなご職業の方にしか「知られて」はいないと思いますよ^-^
一般人には馴染みがありません
どこか懐かしい匂いのする商店街があったり 不思議な町ですね
それなりの歴史や文化を残しながらもどこか取り残され感漂う「ザ・滋賀」な町?
取り残された感、わかりますね!
岩根村、三雲村、いちばん後に、下田村が合併して、
もと甲西町が生まれたので、それぞれの村の独自性が、
今も遺ってるような気がしますね。
後から人口が増える都会とは違うし。
でも、伝統は大事にして欲しいなぁ。
滋賀は明治以前は日本でも有数のブリリアントな国だったのに 以降急速に三流に貶めたれた
・・・というようなことを司馬遼太郎が書いていましたが
滋賀に住みはじめて「たしかにそうだったんだろうな」と思うようになりました^-^
(はじめは既にブリリアントでなくなった滋賀のイメージしかなかったのですが・・・)
でも 取り残されたおかげで(?)稀少な祭りが伝承されていたりするのかなあ・・・とも思います
篠田の花火なんかも もし京都でおこなわれたら大騒ぎでしょうね
大騒ぎされるのはいいのですが そのせいでもうなくなっているかもしれませんね・・・
水戸、岩根、下田???
いやー
今日の防衛戦 シビれましたね!
最終ラウンドにKO・・・信じてましたけど
誰もが納得する強さを見せつけて締めくくるなんて
カッコよすぎでしたw
お尋ねの件ですが・・・
申し訳ありませんが地元民じゃないもので・・・