大津 堅田の蓮如さん

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急速に信徒を増やす真宗に対して、
比叡山延暦寺は僧兵三千人で本願寺を焼き打ち・・・
いわゆる 「寛正の法難」がおこります。

蓮如さんは親鸞の木像=御真影を背負い、
京都から大津へと逃れますが、
追い詰められて、それを三井寺に預けます。

なぜ、比叡山と同じ天台宗の寺に・・・?

同じ天台宗でも 両者は「山門」「寺門」と称し
互いに仲が悪く、三井寺としても蓮如さんを保護することで、
延暦寺に一矢むくいるつもりがあった・・・ともいわれます。

ところが、蓮如さんが北陸への布教から帰り、
その後 山科本願寺が完成(1480年)したのを機に
門徒衆が御真影を迎えようと赴いても、
三井寺はこれに応じません。 

  「返してほしいのなら、生首をふたつ持って来い」

勢いのある真宗への嫉視からか 
そんな無理難題をふっかけます。

堅田に 源右衛門と源兵衛という漁師の親子がいました。

この話を聞いいて・・・

  「わしらは 殺生を生業とする漁師。お役に立てるなら」

なんと源右衛門は愛息子の首を切りとって 
三井寺へと向かったといいます。

  「これは愚息の首です」
  「ふ・・ふたつの首・・・といったはず。も、もうひとつ首が足らない」
  「もうひとつはわしの首です。どうか打ち落としてください」

三井寺は親子の篤い信仰心に胸を打たれて 
御真影を返却した・・・と伝説は語りますが・・・
なんとなく 源右衛門さんの気迫におされて
のことではなかったのかな・・・とも思います。

源平衛さんの首は手厚く葬られ・・・
その後父源右衛門さんは、諸国を巡礼・・・
備後国で没したとも伝えられています。




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中世の強大な自治都市・堅田には
「堅田衆」あるいは「堅田湖族」とも呼ばれる人々がおり 
「殿原衆」(地侍)と「全人衆」によって構成されていました。

一休さんが修養した「祥瑞寺」は、武士階層が多い
「殿原衆」に支持された臨済宗が広まって創建されたものです。
(写真は堅田源平衛殉教の像のある光徳寺)

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堅田源平衛墓

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一方、同じころに創建された 浄土真宗・本福寺は
「全人衆」に支持されてできたものです。

その後一時期臨済宗に改宗されますが、
3代目・法住、4代目・明顕父子が浄土真宗に復帰。

蓮如さんが「寛正の法難」によっって 
この地に逃亡するや「全人衆」からの強い支持を受けて
後に「堅田門徒」と称せられるほどの一大勢力になります。

「本願寺旧址」という石碑に「堅田門徒」の矜持を感じますね。

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五木寛之氏の『蓮如』にこうあります。

  堅田衆は、かつて『良民』と呼ばれた一般農民とくらべますと、
  交通・水運に従事する人びとが多かったことから、
  どことなく異なった剛直独立の気風を育ててきた歴史があります。 
  また、事実、アウトロー的な側面ももっていた人びとです。 
  世間では人によって、彼らを『海賊』扱いする向きもありました。
  『研屋』 『麹屋』 『紺屋』 『大工』 『庭師』などの職人衆、
  そして『馬借』 『車借』 『船頭』、さらに『漁師』や『海賊衆』
  といわれる人びとなど、自由独立の『非・常民』が蓮如のサポーターだった・・・

旧約聖書のアブラハム顔負けの源右衛門さんも、
そんな人びとのひとりだったんですね。
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by dendoroubik | 2011-01-23 21:43 | ◇アイドルを探せ! | Trackback | Comments(0)